大阪市内にも雪が舞った1月25日、門田博光さんが亡くなったニュースが届いた。
最後に会ったのは13年か。始球式に登板するため、京セラドーム大阪に姿を見せたとき以来か。肩を丸める姿、「おおお…」の低い声が懐かしかった。訃報を聞いた時、何かが塊になってのどに詰まった。
パチン!!
35年前、はたかれた痛みは、今もほおに残る。
88年に親会社の南海電鉄がダイエーに球団を売却し、ホークスは福岡に移転。主砲の門田さんの去就が取り沙汰されていた。チームとともに福岡へ行くのか、阪急から球団を得たオリックスへ移籍するのか。同年、40歳にして本塁打と打点の2部門でタイトルを獲得した「不惑の2冠王」の去就は、オフ最大の関心事。パ・リーグキャップの先輩に「とにかく門田に張り付け」と厳命された。門田さんが乗る車が動けばメディアの後続車がつくカーチェイスが連日、展開された。
熟考したい本人にとっては、メディアの追跡は迷惑このうえなかった。「球団との話し合いが決まったら必ず君らには言うから、追いかけるのはやめてくれ」と何度も言われた。だが、こちらは“決定的瞬間”を落とせない。ある日、奈良県の自宅から大阪・心斎橋に向かった車を数社で追いかけたとき、ついに門田さんの堪忍袋の緒が切れた。心斎橋のホテルに向かったのは、全くの私事。追いかけた数人はホテルの部屋に呼ばれ、全員が門田さんにほおをはたかれた。
実際、それほど力はこもっていなかった。だが「これだけ頼んで、なんで聞いてもらえんのや!」の声が、胸に迫った。たたいた門田さんの方が、震えていた。不惑の2冠王をこれほどまでに怒らせてしまったことへの悔いが痛みになり、ほおに残った。
用事をすませた門田さんは、再び我々を部屋に招き入れた。そして、謝った。「たたいてしまって、申し訳ない。女の子の顔もたたいて…悪かったな…」。大打者が、情けない顔をしていた。
その夜、門田さんの行きつけの店で、たたかれた記者全員が焼き肉をごちそうになった。肉をほお張り、酒を飲みながら、門田さんは単身で福岡へ行く困難を我々に丁寧に説明した。「朝起きた時から、おれの試合への準備は始まっている。アキレス腱(けん)を切った時から、欠かさず続けてきた細かいルーティンがある。他の人が聞いたら、なんでそれが福岡ではできんのかと思うかもしれん。しかし、おれには、奈良の家でしかできんのや」と。そうか、だからなのか、と納得できる話し方だった。
帰り際、門田さんは言った。「うちの前で待つのだけは、やめてくれ。近所から苦情が出て、家族が困っとる。近くに大和文華館があるやろ。その前で待っといてくれ。締め切りに間に合う時間に電話してくれたら、必ず出るから。球団から連絡があったら、必ず伝えるから」と。その提案を受け入れ、門田番たちは美術館付近で待つことにした。
その初日、午後11時近くになり、代表者が電話をかけた。つながらない。あれ? おかしい。なんで? いきなり? たむろしていた門田番が騒然となったとき、夜道を歩いてくる人影が見えた。着ぶくれた門田さんだった。「初日は自分で伝えようと思ってな…。何も連絡はなかったわ」と底冷えのする中、歩いてやってきた。約束を守ってくれたことにほっとし、わずかな時間でも「なんで?」と思ったことを恥じた。
約束は、最後まで守られた。去就を決める節目の会談を、ちゃんと門田さんは伝えてくれた。
そういう人だった。
冷え込む秋の夜、丸く着ぶくれた姿を見つけた時、信頼の揺るぎなさを感じることができた。そんな喜びを教えてくれた取材対象者が、この世を去った。【堀まどか】