電車で野球を見に行く。そんな経験、したことない人の方が少ないだろう。かつて、プロ野球の親会社の多くが鉄道会社だったことを持ち出すまでもない。「鉄道」と「野球」は、私たちの生活の中にごく当たり前に存在してきた。電車に乗って野球を巡る旅に出かけよう。今回はJR東海道線の旅。日本の鉄道発祥の地、新橋から始めたい。野球にも縁深い土地だった。

 
 

新橋の待ち合わせスポットといえば、日比谷口のSL広場だろう。黒い巨体を見上げると、新橋が鉄道と深い関わりがあることを思い出させてくれる。

野球との関わりは? 目の前に広がるサラリーマンの聖地を抜けた先に手がかりがあった。

烏森口から約8分。赤レンガ通りを新橋5丁目まで歩くと「赤レンガ通り地図」にたどり着く。沿道に設置された案内板のワンポイント知識に目をひかれた。

「日本の野球チーム発祥地新橋」

そう、新橋こそ、日本で最初に組織的な野球チームができた場所なのだ。

「新橋アスレチック倶楽部」といった。さかのぼること142年。1878年(明11)に新橋鉄道局内に結成された。作ったのは、平岡■(ひろし)。1871年に15歳で渡米し、汽車の車両製造技術を学んだ。5年後に帰国する際、野球道具一式と「ベースボール術」を持ち帰る。伊藤博文に請われ鉄道局に勤務する傍らチームを結成し、野球の普及に尽力。日本で初めてカーブを投げた投手としても知られ「カーブはひきょうか否か」という論争を巻き起こした。

余生は「吟舟」を名乗り、三味線ひとすじ。1934年(昭9)に77歳で亡くなった。59年、正力松太郎らとともに、最初に野球殿堂入りした。

「日本の野球チーム発祥地新橋」の記載がある赤レンガ通り地図
「日本の野球チーム発祥地新橋」の記載がある赤レンガ通り地図

平岡の「初めて」は、まだある。1882年(明15)に日本初の野球場を造り「保健場」と名付けた。

その保健場は、どこにあったか説が分かれている。新橋説と、品川の八ツ山下という説。いずれにせよ、新橋か品川どちらかの停車場(=駅)敷地内にあったのではないか。大宮の鉄道博物館へ向かった。

ライブラリーに明治期の新橋停車場構内図が保管されていた。旧停車場は浜離宮に隣接。汐留町にあった。保健場ができる1年前、81年のものから見せてもらった。線路や宿舎など数軒の建物が記載されていたが、敷地の大半は空白。おそらく原っぱであり、そこで野球の練習をしていたのだろう。ただ、球場を示すものはなかった。

続けて82~84年の構内図。同様に、球場らしき記載はなかった。最後に97年。空白だった場所にさまざまな建物ができていた。球場の余地はない。停車場の周辺は浜離宮や住宅街。保健場は品川にあったように読める。

残念ながら、品川停車場の構内図は残っていなかった。87年(明20)当時の品川一帯の地図を確認できたが、縮尺5000分の1では細かいところまで判別できなかった。気になるのは、八ツ山橋付近に、海側に突き出した台形の土地があったこと。そこに保健場が造られたのかも知れない。

今の京急・北品川駅の近くだ。日本初の球場は品川だろうと推測しつつ、新橋駅へと戻る。東海道線に乗る前に、もう1カ所、足を延ばそう。新橋には野球に縁深い場所が、まだある。(つづく)【古川真弥】

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