<WBC2次ラウンド:日本4-3台湾>◇2013年(平25)3月8日◇東京ドーム

奇跡を信じて走り始めた瞬間、鳥谷敬は予期せぬ異常事態に肝を冷やした。今だから明かせる舞台裏だ。

「本当に焦ったよ。スタートはうまく切れたのに、思っていたより全然足が動かなくてさ…」

鬼の形相で二塁ベースに滑り込む。間一髪のセーフ判定。二盗成功に、日本中の誰よりも本人がホッと胸をなで下ろしていた。

13年3月、9回表日本2死一塁、二盗に成功する鳥谷。右は林智勝
13年3月、9回表日本2死一塁、二盗に成功する鳥谷。右は林智勝

13年WBC2次ラウンド初戦の台湾戦。侍ジャパンは8回表に2点ビハインドを追いつくも、その裏に1点を勝ち越された。9回の攻撃も2死一塁。絶体絶命の窮地で、一塁走者の鳥谷はスチールを図った。

失敗すればゲームセット。準決勝以降の開催地、米国サンフランシスコ行きが一気に遠のいてしまう。非難の嵐が頭をよぎって、足がすくんでもおかしくない場面。勇気ある判断には根拠があった。

マウンドには守護神の右腕・陳鴻文。9回1死から四球で一塁に歩く際、鳥谷は試合前ミーティングで頭にたたき込んだスコアラーの言葉を思い出していた。

「陳鴻文はクイックが遅い」「けん制球は1打席中に1回だけ」-。

ベンチの指示は「行けたら行け」。1死一塁。長野久義が中飛に倒れるまでにクイックの遅さを確認。2死一塁。井端弘和が初球を迎える前に、けん制球を受けた。条件はそろった。

「怖くはなかった。アウトになるなんて考えもしなかった」。だから、鳥谷は走った。「あれっ、いつもと感覚が違う…」。唯一の誤算に気付いたのは、スタートを切ってからだった。

WBCでは当時所属していた阪神で不動のポジションだった遊撃ではなく、二塁、三塁を任されていた。1次ラウンドは3試合のうち2試合が途中出場。慣れない守備位置、リズムに国際大会特有のプレッシャーも加わり、鉄人の肉体にも目に見えない疲労がたまっていたのだろう。

絶対に失敗が許されない二盗になんとか成功。井端の適時打で同点のホームを踏むと、鳥谷は珍しく派手に両拳を突き上げた。数分前に全身で重圧を受け止めた分だけ、感情があらわになった。

試合は延長10回に中田翔の決勝犠飛が飛び出して劇的勝利。午後7時8分から4時間37分の激闘を終えた翌朝、鳥谷は目を充血させて東京ドームでの練習に現れた。

「全然寝られなくて暇だったから、朝イチでウエートトレしてから来たわ」

今年でプロ17年目。試合に興奮して眠れなかった夜は、後にも先にも1度だけだという。(敬称略)

【佐井陽介】