初めてオールプロ選手で臨んだ04年アテネ・オリンピック(五輪)。悲願の金メダルを期待されていた日本代表は準決勝・オーストラリア戦で窮地に立たされていた。0-1で迎えた7回裏、ようやく千載一遇の好機が訪れる。運命のイタズラか、藤本敦士(阪神1軍内野守備走塁コーチ)の前に立ちはだかったのはジェフ・ウィリアムス(阪神駐米スカウト)。前年03年に虎で18年ぶりのセ・リーグ優勝を分かち合ったチームメートだった。

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運命の6球目。「狙いは逃げるボール。次にスライダーが来たら絶対に仕留めたる」。当時まだ26歳だった藤本はひそかな手応えを胸に、腹をくくった。

初球から2球連続で外角スライダーを空振り。そこから逃げるボール球を我慢。直球はファウルで逃げて、2ボール2ストライクまで持っていった。

「3球振って大体の感覚をつかめた。ここを振ったらボールになるんやな、と。自分の中でイメージが湧いて、速いボールが来たらファウルで逃げたろう、と。スライダーだけを完全にマークしていました」

04年アテネ五輪の準決勝・オーストラリア戦。日本は追い込まれていた。1番福留孝介、3番高橋由伸、4番城島健司、5番中村紀洋…。そうそうたるメンバーが、後に阪神入りする先発クリス・オクスプリングの前に沈黙していた。

是が非でも金メダル-。想像を絶する重圧もナインを硬くさせる中、先発松坂大輔の快投で0-1と踏ん張っていた7回裏、ついに2死から連続失策で一、三塁を作る。8番和田一浩が遊ゴロ失策で頭から飛び込み、最高潮にムードが高まったところで千載一遇の好機は訪れた。

最初、ネクスト・バッタースボックスにいた9番藤本は冷静に覚悟していた。「代打を送られるかな」。マウンドに2番手ウィリアムスが走りだしたからだ。

オーストラリア代表の変則左腕は03年、25セーブ、防御率1・54で阪神を18年ぶりのセ・リーグ優勝に導いていた。虎の遊撃レギュラーに定着していた藤本は愛称ジェフの迫力を、その左キラーぶりを人一倍実感している1人だった。

「後ろで守っていて、左打者がすごく打ちづらそうやなとずっと思っていた。それに、ボールがどういう軌道なのかも含めて、僕はジェフとの対戦成績がほぼゼロだったから」

ベンチには木村拓也、金子誠、相川亮二の右打者3人が控えていた。それでも監督代行として指揮を執っていた中畑清ヘッドコーチは動かなかった。「意気に感じた。燃えました」。藤本は6球目、熱い感情をそのままバットに込めた。

04年8月、アテネ五輪 オーストラリア対日本 藤本敦士はジェフ・ウィリアムスに三飛に打ち取られる
04年8月、アテネ五輪 オーストラリア対日本 藤本敦士はジェフ・ウィリアムスに三飛に打ち取られる

投手から見た図。○=直球、△=スライダー。下線はファウル、★は空振り、白ヌキは最終球
投手から見た図。○=直球、△=スライダー。下線はファウル、★は空振り、白ヌキは最終球

三飛。日本代表は完封リレーを決められ、悲願の金メダルは夢と消えた。ターニングポイントとなったあの1打席、最後は失投が命運を分けたのだから「野球の神様」は気まぐれだ。勝負球は内寄りスライダー。捕手のミットは外角に構えており、偶然抜けた曲がりきらない1球に詰まった。

「内に来たらゴメンナサイという感じで逃げる球だけをずっと待っていた。なのに、あの1球だけ曲がってきてくれなかった。さすがに予測できなかった。あれは魔球でした(笑い)」【佐井陽介】(敬称略、つづく)