ベースボールが日本に伝来し、今年で150年を迎える。一方で野球も細々と、だが草の根のように世界へとゆっくり広がっている。一般社団法人日本ポニーベースボール協会の広澤克実理事長(60)は2012年と13年にカンボジアのトンレ・サップ州で野球を教えた経験を持つ。国際協力機構(JICA)が同国で活動していたが、前任者の任期満了に伴い、知人からの打診を受け1週間の滞在を2度実施した。ヤクルト、巨人、阪神で4番を張った右の大砲は「心は通じ合えたけど、野球は教えられなかったなあ」と振り返った。

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おおらかな広澤さんらしい。カンボジア行きの理由は3つだった。「まず暇だった。そして好奇心。この先カンボジアに行く機会はないなと。3つめは慢心だった。俺が行けば何かできるんじゃないか。どこか心にそんな気持ちがあった」。

目指すはトンレ・サップ州。首都プノンペンから車で3時間ほどの農村だった。20歳から29歳までのおよそ30人を集め練習した。農村での20代の労働力は要。村は厳然たる家長制度があり、練習参加には祖父、父など家長の許可が不可欠だった。幾人もの家長に対し、労働力を借りるお礼(米ドル)が必要だった。

野球を教える時期も限定されている。村の「祭り」が終わった後でなければならない。なぜか。「祭り」の参加は絶対だった。不参加は許されない。広澤さんは「祭りを休めば、本当に村八分になっちゃう。比喩ではなく本当の村八分。昔の日本がそうだったように、行事への意識はものすごく強かった」と述懐した。

野球の技術がどうの、体力面がどうの、そういうはるか手前で、広澤さんは野球を伝える限界を感じた。カンボジアでの人気スポーツはセパタクロー、バレーボール、サッカー。野球の認知度は低い、ましてやある程度の人数も道具が必要。指導者も少なく、普及には時間がかかる。

宿泊先は首都プノンペン。そこから車で移動した。朝5時過ぎにホテルを出て、戻るのは午後10時を回った。「朝はホテルの朝食を食べる。うまいパンと目玉焼きを味わったよ」。カンボジアは1950年代までフランス領。都会のレストランでは、洗練されたフランス料理も楽しめた。

しかし、車が走るにつれ、車窓はジャングルへ姿を変えていく。「道の両側にはマンゴーやパパイアの木がずらっと並んでいる。食べ物には困らないのかなとは感じたよ」。

途中にホテルらしきものはある。ただし、現地のガイドに言われた。「あなたは…、まあ、泊まれないでしょうね」。日本人でもバックパッカーならばチャレンジできただろう。しかし、プロ野球選手として一流ホテルしか知らない広澤さんには、無理だった。

予感はあったが日本とカンボジアでは何もかもが違う。野球を教えるためのインフラがこんなにも大切とは。明大からドラフト1位でヤクルトに入団したエリートの広澤さんには、想像もできない現実が目の前に広がっていた。【井上真】(つづく)

◆広澤克実(ひろさわ・かつみ)1962年(昭37)4月10日生まれ。茨城県出身。栃木・小山-明大を経て84年ドラフト1位でヤクルト入団。92、93年のリーグ連覇に貢献。91、93年に打点王獲得。94年オフにFA宣言で巨人へ移籍。00年からは阪神に移り、03年引退。通算成績は1736安打、306本塁打、打率2割7分5厘。185センチ、99キロ。右投げ右打ち。明大4年の84年ロサンゼルス・オリンピック(五輪)で日本代表で金メダル獲得。