外野席が満員の観客で埋まった。ブラスバンドの軽快なリズムも鳴り響く。甲子園の夏が戻ってきた。それでもなにか足りない。そう。土を拾うシーンが見られない。こんなところにも新型コロナウイルスの影響があった。大会では感染予防対策として、試合後の接触を避けようと、ベンチのスピーディーな入れ替えを呼び掛ける。土の持ち帰りも控えるとした。

土を拾い集めるシーンが消えて、野球殿堂入りした福嶋一雄氏の言葉を思い出した。「持ち帰るのはやめた方がいい。人にあげても意味がない。学校にまいても強くなりません」。ソフトな口調ながら、こう言い切った。95回大会(2013年)の期間中に野球殿堂入りの表彰式が行われ、64年ぶりに訪れた甲子園でのことだった。旧制小倉中・小倉高で夏2連覇を達成したエース。「結果を求めるのではなく努力すれば結果がついてくる。無限大の努力をして欲しい」と付け加えた。

福嶋氏は31回大会(1949年)で倉敷工に敗れたあと、無意識に土をポケットに入れた。帰郷後に長浜審判から届いた速達で知らされたという。「甲子園で学んだものは学校では学べないもの。ポケットの土にそれがすべて詰まっている。それを糧にこれからの人生を生きてほしい」とあった。福嶋氏は「本当にひとつまみの土が出てきた。学校で教わらないことを教わりました」。土は自宅にあったゴムの木の鉢に入れた。

2年前、開催が中止となった際には阪神球団と甲子園が3年生の球児に甲子園の土を入れたキーホルダーをプレゼントした。かつて球場近くにあった露店が「甲子園の土、いかがですか」と売りだしたことがある。60回大会(1978年)でのことだ。ビニール袋に砂らしきものが入り、確か100円だった。よく見ると、甲子園の土と書かれた下に、小さく「はったい粉」とあった。今の時代なら景品表示法違反を問われるだろう品。土が話題を集め、商品の名前になるのは甲子園だけだろう。

18年ぶりの出場で1勝を挙げた浜田ナインも足早に引き揚げた。集団感染が分かり、抽選会、開会式には参加できなかった。岡海善主将(3年)は「甲子園で試合ができたことに感謝したいです。感謝の気持ちを持つことを後輩たちにも伝えたい。甲子園は夢舞台で楽しい場所でした」。土は持ち帰れなくても「学校では学べないもの」を得たかもしれない。【米谷輝昭】

阪神球団と甲子園がプレゼントした甲子園の土を入れたキーホルダー
阪神球団と甲子園がプレゼントした甲子園の土を入れたキーホルダー