さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第2弾は長嶋茂雄氏(81)が登場します。

 佐倉一高時代は無名でした。立大時代は当時の6大学新記録となる8本塁打を放ちました。巨人時代の活躍は言うまでもありません。それに比べて高校時代は、まるで日が当たりませんでした。

 しかし、長嶋氏にとっては貴重な時期でした。のちに日本中を熱狂させる「ミスタープロ野球」の基礎を作り上げた時代でした。コンバート、打撃技術、バックスクリーンへの1発。そして長嶋氏らしい愛らしいエピソードの数々…。

 仲間と野球に明け暮れた日々を全8回の連載で振り返ります。4月20日から27日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカンスポーツ・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

思い出を笑顔で語る長嶋茂雄氏(撮影・浅見桂子)
思い出を笑顔で語る長嶋茂雄氏(撮影・浅見桂子)

 都内のホテルで行った長嶋氏への取材に、私たちは2枚の写真パネルを用意しました。1953年(昭28)の春と夏にとった、当時の佐倉一ナインの集合写真。1学年下の寺田哲夫さんから譲り受けたものを引き延ばし、パネルに焼いたものでした。

 長嶋氏は高校時代のことを覚えているのだろうか? 立教大学、巨人とその後の輝かしい活躍に比べ、陽の当たらなかった時代のことを語ってくれるのだろうか? 記憶を呼び戻す「仕掛け」になればと思い、高校時代の写真をパネルにして持ち込んだのです。

 浅はかでした。席に着くなり、長嶋氏は1枚のパネルを引き寄せ、左手でかつての同級生の顔を、ひとりひとり、なぞりました。

 「これが牛島でしょう。これは奈良、藤代。こいつは莇(あざみ)だな。そしてマネジャーの蜂谷…。懐かしいなあ」。すらすらと、仲間たちの名前をあげていきました。そして、こう続けました。「もうみんな亡くなっている。生きてるのはオレと…」。

 長嶋氏の同期は4人いました。奈良誠さん、牛島靖次さん、莇輝男さん、藤代藤太郎さん。蜂谷マネジャーを含めると5人いましたが、いずれも他界されています。

 今回の取材では、長嶋氏より5歳年上で、当時のコーチ、監督を務められた加藤哲夫さん、そして寺田哲夫さんから貴重な話を聞かせていただきました。長嶋氏と藤代さんの間に勃発した「パンツ事件」(詳しくは紙面連載をお読みください)など、愉快なエピソードもうかがうことができました。

 ただ、長嶋氏と最も長い時間を過ごした同級生のみなさんを取材できなかったのは、残念で仕方ありません。同級生の視線から長嶋氏はどう映っていたか、国民的ヒーローになる男の思春期はどういったものだったか、聞いてみたいことがたくさんありました。


「野球の国から 高校野球編」長嶋茂雄氏を4月20~27日紙面に掲載
「野球の国から 高校野球編」長嶋茂雄氏を4月20~27日紙面に掲載

 高校卒業後はみなさん別々の道を歩まれ、接点はあまりなかったようですが、卒業から28年後の1982年(昭57)5月、佐倉高校創立80周年記念校史の座談会で集まりました。そのなかで長嶋氏は高校時代をこう振り返っています。


 「私の時代にはテレビも、ステレオという物もなく、刺激を誘うものは何一つありませんでした。ただ雑草の生い茂る広野の、自然だけの環境があるのみでした。ひたすら白球を見つめ、追い、走り、打ち込む生活の毎日でありました。1つ1つの試合の結果の善し悪しを越えて白球一筋に皆の心が集まり、ひたむきに生きておりました。血と汗を流した者のみにしか分からない共通の心の場を持てたということは、大きな私の財産となっております」


 ともに青春を燃やした時間は、かけがえのないものです。取材終了後、パネルの贈呈を申し入れると、長嶋氏は「これにしよう」と1つだけ持って帰りました。それは、長嶋氏をはじめ全員がいい笑顔をみせている、佐倉一のグラウンドでのものでした。【沢田啓太郎】