さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第7弾は福嶋一雄氏(86)が登場します。

 戦後直後の1947年(昭22)のことでした。7年ぶりに甲子園に夏の大会が戻ってきました。その夏、福嶋さんを擁する小倉中は頂点まで駆け上がりました。翌48年の夏は全5試合完封で夏2連覇。49年、夏3連覇はなりませんでした。しかし、その夏、甲子園を去るときに土を持ち帰った最初の高校球児と言われるエピソードが残ります。

 福嶋さんは、戦争のさなかに青春時代を過ごし、さまざまな苦労を克服してきました。そして、終戦直後の甲子園でひときわ輝きました。その姿は、戦後の苦しい時代を生き抜く当時の日本人の胸を熱くしたことでしょう。

 全7回でお届けするレジェンドの高校時代。6月14日から20日までの日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。


取材後記


 1931年、昭和6年生まれ。今年で86歳になります。福嶋一雄さん。やさしいまなざしで、丁寧に取材に応じていただきました。

 戦後の苦しい時代に多感な高校時代を過ごし、現小倉高校のエースとして甲子園に出場するだけでなく、夏2連覇という偉業を達成しました。連覇した夏は全5試合完封。今の時代では想像もつかない快挙を達成しました。しかし、そんな実績を自慢するそぶりはまったくありません。

 謙虚さはますます磨きがかかっているようです。自分の父とほぼ同学年の大先輩。元高校球児だった私が緊張しながらたどたどしく質問しても、じっくり考え、自分の言葉でしっかりと応じてくれました。

 静かで高貴なたたずまい。そんな表現がぴったり。60年以上も前の甲子園のマウンドでも、きっと毅然(きぜん)として、謙虚で紳士的なたたずまいだったのではないでしょうか。甲子園の話、高校時代の話、いろんな話を聞いていても、まるでマウンドで投球しているかのように、落ち着いて言葉を選んでいました。

 母校への愛も大きいです。自分の当時の記念品などは、学校に隣接する同窓会の施設「明陵会館」に保管されていました。「たくさんありすぎて自分だけでは管理できないんです」。写真撮影のためにわざわざ足を運んでくれた。そこでOBとして現代の小倉野球部員に対して厳しい口調が飛び出しました。

 福嶋さん 今の高校生は厳しさが足りない。勝負に対する執念が足りない。たまに試合を見たりして投手に声をかけることがあるが、もっと頭を使いなさいと。打たれないようにもっと工夫をしなさいと。人から言われてやるのではなく、自分からしないと向上心は育たない。ロボットになるな、と言いたいですね。

 今回の取材では、苦しい時代をともに過ごし、福嶋さんと夏連覇の歓喜を味わった人にも話を聞くことができました。初優勝時の主将、宮崎康之さん。連覇した時の主将、原勝彦さんです。当時のことを聞いた後、小倉の現状について聞くと、こう返ってきました。

 宮崎さん もう全国の人は忘れているでしょう。原さんは大阪府枚方市の「小倉」と書いて「おぐら」と読む地名に住んでおられる。今の時代、甲子園に出場しても関西の方は「こくら」と読まないかもしれません。寂しい限りですよね。

 原さん 厳しさを知ってほしいですよね。勝っても負けても楽しかったというようなコメントを聞きますが私には理解できません。とにかくつらかったイメージしかないですからね。

 肘の痛みに耐えながら夏3連覇に挑戦した福嶋さん同様、やはり他のメンバーも「厳しさ」の大事さを強調していました。説得力がありすぎます。

 福嶋さん 上空で米軍機が飛び交うなか、登校していた。1度、学校の近くに米軍機が墜落したこともあった。最近、北朝鮮の情勢などもあって変なムードになってますが、絶対に戦争はしてはダメだと思う。

 甲子園で相手を完封しただけでない。自らにふりかかるあらゆる厳しさを「完封」した福嶋さんの高校時代。たっぷりと紙面で感じてもらえれば幸いです。【浦田由紀夫】