江川の「甲子園ロード」の出発点に、話を移すことにしよう。作新学院の入学にも紆余(うよ)曲折があったのだ。

 江川は中3の新学期前、古河鉱業(現古河機械金属)に勤める父二美夫の転勤に伴い、静岡・佐久間町(現浜松市天竜区)の佐久間中から栃木・小山中に転校。早速野球部の門をたたく。同中3年捕手の小堀充は江川が初めて来た春休み中の「その日」を覚えていた。

 「『いっしょにやらせてください!』って来た。でっかい体だったから先輩が来たんだと思った」。既にこの時、江川の身長は178センチに達していた。小堀充が球を受けると、軟球なのにミットのひもが1週間で切れた。雨が降ると、隣の小山高野球部の仮設屋根付きブルペンを使わせてもらったが、その直球を見た高校生が「スッゲー!! ほんとに中学生かよ」と舌を巻き、並んで投げることを避けた。

 頭角を現した江川は、7月の県内の中体連大会でいきなり優勝、続く8月の県下少年野球大会では準優勝ながら、国本中、黒磯中戦でノーヒットノーランを達成した。いずれも決勝は、捕手で主砲の金久保孝治が率いる栃木東中が相手だった。2人は度重なる対戦で互いの能力を認め、ライバルとして、仲間として、進路を意識しあう。金久保孝治は、後に小山に進学。その際、江川の同高進学説が県内に充満した時に「一緒にできれば甲子園にいける!」と胸を躍らせるのだった。

 一方で「怪物」が、甲子園を強烈に意識し出したのも、実はこの頃だった。

 「その頃、球が速くなったという自覚があった。中体連に優勝してから、具体的に甲子園にいきたい、いけるかもと、思い始めた。転校は“運命の分かれ道”だった」。腕組みした江川は、天井を見上げながら言った。

 転校前の、静岡・佐久間小5年から佐久間中2年まで、江川とバッテリーを組んだのが、関島民雄。当時バス通学だった江川は、練習前に相棒の家で昼食の弁当を食べた。2人でテレビに映る高校野球中継を見ながら「『次はカーブかな?』『いや、インコースの直球だよ』なんて、当てっこをした」。こみ上げる懐かしさを抑えるように「でも、転校してよかったんじゃないですか。2人で越境しても野球の強いところにいきたいね、と話していたくらいですから…」と続けた。

 「小山にすごい中学生がいる!」。逸材獲得を目指す強豪校の熱気は、一気にスパークした。地元の利に恵まれ、練習環境も、交流も密着した小山はもちろん、隣県の前橋工、東京からも日大三などが続々勧誘に訪れた。

 当時を振り返って、江川が言う。「オレは転校したばかりだったから、親父が絵を描いていたと思う。甲子園は目標だったけど、親父の考えとしては、まず息子には大学に行かせたいということで、進学が1番。その次が甲子園にもいける強豪…。まず進学なんだよ。野球もできて進学、じゃないんだよね」。

 「OR」ではなく「AND」。しかも、進学校であり甲子園常連校という「BOTH」の序列が、通常のケースとは真逆なのだ。

 江川の記憶の端に、中2秋に観戦に連れていかれた神宮球場での「早慶戦」がある。「ネット裏の上の方で観戦したんだよね。両校の応援合戦を見て、ここでやってみたい、って思った」。

 後に江川は「早慶への進学と、甲子園への実績がある高校」を標榜。そんな経緯からも、この観戦行は、父二美夫が、息子に大学進学を意識させるために打った“布石”だった形跡がある。その証拠に、意外な進学先が、二美夫の口から発せられる-。

(敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)