全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第6弾は、桑田真澄氏(49=スポーツ報知評論家)の登場です。2度の全国制覇に、2度の準優勝。1983年(昭58)夏から85年夏の甲子園マウンドはPL学園エースとともにありました。戦後最多20勝の記録を残した桑田氏の高校時代を10回の連載で紹介します。

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 その日を境に、甲子園は新時代を迎えた。

 83年8月20日。夏の甲子園準決勝。PL学園の相手は池田だった。戦前の予想は圧倒的に池田有利。史上初の夏春夏3季連続優勝まであと2勝に迫る池田に注目が集まるのは当然。だが、プレーボールからわずか1時間25分で、その夢は断たれた。PL学園7-0池田。完封したのは1年生の桑田。池田にとっては甲子園31試合目で初の完封負けだったが、ゼロ行進を続けるうちに「ひょっとしたら」の思いを強めていたのは、桑田自身だった。

 桑田 成功体験があったから、勝負はやってみないと分からないというのが頭の中にあったんです。最後まであきらめたらいけないな、と。

 周囲の予想を裏切るシャットアウト劇は初めてではなかった。池田戦の1カ月前…。

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 7月26日の大阪大会4回戦。「9番、ピッチャー、桑田」。監督の中村順司(現名商大総監督)の吹田戦メンバー発表で、空気は変わった。公立の実力校相手の先発に、中村は背番号17の1年生を指名した。

 桑田 「お前が投げるから今日でオレの青春は終わったわ」と言ってくる先輩もいた。言葉にしなくても、チームみんなが当惑しているのが分かりました。

 桑田は、高校デビュー戦を思い起こす。試合前の先発メンバー発表後、ナインが集まっているところに行くと、みんな自分から離れていった。救急箱やバットケース、ボールケースなど試合用具を腕いっぱいに抱え、1年生は途方に暮れていた。

 桑田 僕は高校に入学してから登板した試合で、抑えたことが記憶にないほど全く歯が立ちませんでした。「何が中学NO・1だよ」「高校レベルでは無理だな」って言われて、6月ごろには投手をクビになって野手に転向。代打、代走要員や外野手として大阪大会のメンバーに入った。その僕が先発するってことは100%負けやと。

 鳴り物入りでPL学園に入った桑田だったが、春の練習試合で満塁被弾に大量失点。全く通用せずカベにぶち当たっていた。

 中村 入学した直後、PL球場のホームベースから右翼に向かっての遠投で80メートル、低いままの球筋の素晴らしいボールを投げた。間違いなく投手で育てるべき選手だと確信しました。

 ただ、投手・桑田にはスナップスローができないという弱点があった。また練習試合で打ち込まれたことで、桑田本人も投手を続ける自信を喪失していた。

 外野守備に取り組む桑田の変化を、中村は見ていた。市神港、報徳学園など兵庫の強豪校の元監督で当時はPL学園の臨時コーチだった清水一夫の「大丈夫」という推しもあった。満を持してのデビュー戦で桑田は2安打完封。その試合開始直前の味方は正捕手の森上弘之ただ1人だった。

 桑田 試合前ノックのあとに森上さんが「オレはお前の味方や。2人で頑張ろう」と言ってくれた。1人でもそう思ってくれる人がいてくれたことがどれだけうれしく勇気を与えてくれたことか。

 森上のミットに吸い込まれる球は、中学NO・1と言われた桑田の球だった。

 1回、2回、3回…。相手打線をゼロで抑えるにつれて、「桑田、頑張れ」と声をかけてくれる先輩が増えた。5回を過ぎるころにはレギュラー全員から「桑田、頼むぞ」と背中を押された。試合が終わると、「桑田、次も投げろよ」とチームのムードは完全に変わった。(敬称略=つづく)

【堀まどか】


 ◆桑田真澄(くわた・ますみ)1968年(昭43)4月1日、大阪府生まれ。PL学園では甲子園に5季連続出場。85年ドラフト1位で巨人に入団。日本通算173勝141敗14セーブ、防御率3・55。最優秀防御率2度、最多奪三振1度。94年セ・リーグMVP、87年沢村賞。巨人を退団し、07年は米大リーグ・パイレーツでプレー。10年に早大大学院スポーツ科学研究科を首席で修了。174センチ、80キロ、右投げ右打ち。


(2017年6月3日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)