九州の地に深紅の大優勝旗が渡る予兆はあった。1947年(昭22)の春。前年夏に全国中等学校優勝野球大会が再開されたのに続き、センバツも開催された。しかも、甲子園での再開。さっそうと登場したのが福嶋だった。

 初戦の京都一商、準々決勝の岐阜商、準決勝の城東中と3試合連続で1点差勝利。決勝で徳島商に1-3で敗れたが、全4試合で完投。徳島商戦では延長13回で被安打5だった。スリークオーターからの投球はさえ渡った。

 福嶋の2学年上で三塁手だった当時の主将、宮崎康之は振り返る。

 宮崎 練習だけでうまくなったようなやつばかり。福嶋君も口数少なく、黙々と練習するタイプだった。絶妙なコントロールで打者のタイミングをずらす技巧派でした。何より、人以上に練習してましたね。

 福嶋は投げた。ブルペンで300球から400球ほど投げた日もあった。打撃練習にも毎日登板した。1日500球もざらではなかった。モノがなかった時代。スパイクはあったが、今のような品質ではなく、金具が足裏に食い込み、耐えられないほどの痛みが走った。はだしでピッチングすることは珍しくなかった。右足の親指がすれるため、包帯を巻いた。血がにじんだという。

 福嶋 いろんなことに耐えて頑張っていた。野球ができることがうれしかったし、感謝していた。その気持ちが今につながっている。

 福嶋の1学年上で捕手だった原勝彦も「とにかく気づいたら走ってました」と、ひたむきな努力を認める。ただ、猛練習だけではなかった。手本にした投手がいる。阪神の若林忠志だった。「七色の変化球」を操る技巧派の本を読んで参考にした。福嶋の武器はコントロールと打者を惑わす投球術。伸びのある球を投げ込んだかと思えば、少しだけ抜く球も投げた。現在のような、打者の手元で球を動かす投球を、約70年も前に実践していたのだ。

 春にあと1歩届かず「優勝」を誓った夏の道のりは平らではなかった。甲子園を目前にした北九州大会決勝前夜、福嶋らはアクシデントに襲われる。

 準決勝で勝利したメンバーは、トラックの荷台に乗って宿舎へ帰っていた。その途中、トラックが交通事故にあった。荷台で選手をかばい、当時の野球部長、山中長一郎が右腕を骨折した。「部長へ優勝を届けよう」。福嶋をはじめ、メンバーの気持ちは固まった。翌日、龍谷中を制し、甲子園切符を手中にした。

 そうやって乗り込んできた甲子園。8月11日の抽選会では「縁起がいい」とメンバーで喜んだことがあった。抽選会場「一番乗り」を果たした主将の宮崎が引いたクジは「1」。試合も開会式直後の「第1試合」でベンチも「一塁側」だった。「1」ずくめだったのである。(敬称略=つづく)

【浦田由紀夫】

(2017年6月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)