甲子園での戦いを続けていくうちに、1年生エースの荒木はある感覚をつかんでいた。当時の直球は、ナチュラルにシュートして、沈んだ。今で言うツーシームに近い軌道だった。

 「今はバックドアとか騒いでいるけど、オレは投げていたから」と笑う。シュート回転する直球を、自在に操る感覚。直球は130キロ台中盤から後半で、変化球はカーブだけ。1年生が全国の強打者を抑えるには、武器が必要だった。

 「どの辺から投げたらストライクゾーンに入ってくるとか、インサイドも、どの辺から投げたらボールになるけど、どの辺ならインサイドに決まるとかという感覚があった。それが1年生の夏の甲子園の時に、何となく試合中に分かった」

 東東京大会や、1安打完封した甲子園1回戦の北陽(大阪)戦ではなかった感覚。勝ち抜く度に連戦が続く甲子園。「何となくこういう風に投げたら、試合ってあんまり点を取られないで進んでいくんだなとか。セカンドゴロがすごく多かった。外にそのボールを投げておけば、ボールが少し沈むから、バッターがボールの上っ面をたたいてゴロになるとか、打ってくれる、というのがあった」。

 直球の握りのまま、指先の感覚でボールを動かした。「本当に強いバッターには、そういうことしないで一生懸命投げた。クリーンアップには使わない。下位打線は、真ん中辺りにシュート回転のボールを投げた」と、少ない球数で打ち取る術を身に付けた。

 3回戦で札幌商(南北海道)を4安打完封すると、翌日に行われた準々決勝の興南(沖縄)戦は、第1試合だった。

 「札幌商戦はナイターで、終わって宿舎に帰って、次の日の第1試合、朝一番でもうマウンドにいた。(午後)7時ぐらいまでやって、次の日の朝だから。ずっとマウンドにいる感じだった」

 実際は、札幌商戦の終了は午後4時44分。取材を終え、宿舎に戻ったのは恐らく午後6時過ぎだっただろう。だが荒木の記憶では、一晩中甲子園のマウンドにいたような感覚だった。それほど投げ続けた。投手分業制の時代ではない。特に早実は伝統的にエースにこだわるチームだった。「高校生だからできるんだよ。その時代だから。バテた記憶はないし食欲も減らない。試合開始の時に肩が張ることはあるけど、投げているうちに何ともなくなる。やっぱり昔の子なんだ」。

 疲れを見せないどころか、興南戦は大会ベストピッチで、3安打9奪三振で連続完封を決めた。試合後のアイシングなんてない時代。大会中に、マッサージを受けることもなかった。

 16歳の無謀にも見える連投。現代だったら、社会問題に発展したかもしれない。それでも荒木は、シュート回転する直球を自在に操り、投げ続けた。後にプロ入り後、24歳で右ひじの手術を受けることになる。

 「プロのケガとの関係は、ないとは言えない。高校でヒジ痛はなかったけど、大会が終わった後に張りが残って、注射を打ったことは何回かあった。でもそれだけ。少したてば、また投げられる。あの時ケアとかをもっとちゃんとしてたら、(現役が)もう少し、何年か延びたかもしれない」

 高校生だから、投げ続けられた。

 「オレはタイブレーク賛成。高校野球の魅力がなくなるとか言うけど、その子たちの将来の方が大事。ルールを決めれば、文句は出るかもしれないけど、絶対にやるんだから。自分自身でも、ちょっときつ過ぎたと思っているから」

 ただ荒木が1年生だった80年に、連投を疑問視する声は上がらなかった。準々決勝から中1日。瀬田工(滋賀)との準決勝で、再び先発のマウンドに上がった。(敬称略=つづく)【前田祐輔】

(2017年7月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)