柳川商(福岡)時代は厳しい練習を乗り越えてきた末次だが、指導者としては正反対の道を歩んでいく。

社会人野球のヤマハ発動機を退社して、いったんはサラリーマンになったが「将来は監督」という約束のもと、柳川のコーチの話が舞い込んで承諾。指導者の道に足を踏み入れる。94年夏の福岡大会4回戦で敗れるとコーチだった末次は、監督に就任。その1年目から「改革」に乗り出した。

末次 思春期まっただ中の高校生にすれば、丸刈り頭は恥ずかしいですよ。九州の田舎者が甲子園に行けば、ただでさえ緊張もするし、恥ずかしさもあっておどおどした態度になってしまう。そうならないようにと思った。

当時では当たり前だった丸刈りを強制せず、選手に「長髪OK」を告げた。監督・末次の指導方針は「楽しく、明るく、元気よくをモットーに、練習が待ち遠しいと思える部であってほしい」というものだった。のちに中大を経てヤクルトに入団した投手、花田真人を擁したチームは、監督就任最初の夏、95年にいきなり甲子園切符をつかんだ。

丸刈りでは都合が悪いこともあった。この年の修学旅行は米国ニューヨークだった。

末次 アメリカでは丸刈りは囚人扱いですからね。街中で、ブレザーの内ポケットに手をいれようものなら、相手が防衛のために銃を撃つ可能性もある。校長からどうにかできないかって言われてましたから。

「新しいもの好き」の性格も変革を後押しした。当時の宿舎に理学療法士を同行させ、選手の疲労回復を目的としたトレーナー的役割を任せた。今では甲子園でも試合後に選手は理学療法士の指導のもと、ストレッチを行うことなどが決まっているが、20年以上も前から必要性を感じていた。

近鉄、オリックス、巨人で活躍した投手の香月良太を擁して春夏甲子園8強に輝いた00年には低酸素カプセルを導入していた。

末次 あのハンカチ王子(斎藤佑樹)で話題になったけど、もっと前から使ってましたから。

指導者としての末次は、高校野球の歴史を塗り替える出来事にも立ち会っている。監督就任と同時に部長となったのは、体育教諭の高木功美子。95年夏に甲子園で初めて女性がベンチ入りする画期的な瞬間が訪れた。高木はその夏の甲子園2回戦の前に、控え選手と宿舎で卓球をしていたとき、左足アキレスけんを断裂。2回戦は松葉づえ姿で懸命にベンチ入り。「勝利の女神」と呼ばれていた。

末次 背番号をもらえないメンバーを任せていた。特に精神的なケアをお願いしてたんです。サービス精神旺盛な方だったので、選手のリクエストに応えて一緒に卓球してたんですね。張り切ったんでしょうね。申し訳なかったですけど、あれが女性最初のベンチ入りだったんですから。

翌96年夏から甲子園のベンチにメンバー以外で記録員が入ることが許可された。今では女子マネジャーの記録員は見慣れた光景で、今春センバツからは女子マネジャーの甲子園練習参加も制限付きで認められるようになった。女性と甲子園のパイオニア的存在である高木とのタッグ。慣習にとらわれない末次だからこそスムーズに組むことができたといえるだろう。その末次が、今の球児に託す思いがある。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

(2017年10月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)