全国高校野球選手権大会が、100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第22弾は星野仙一氏(70=楽天副会長)です。岡山・倉敷商では惜しくも甲子園に届きませんでしたが、青春時代と高度成長期が重なった濃厚な3年間は、その後の野球人生に大きな影響を与えています。球界で強烈な個性を放ち続ける重鎮の知られざる原風景を、全11回でお送りします。


穏やかに高校時代の思い出を語る星野仙一氏
穏やかに高校時代の思い出を語る星野仙一氏

1通の走り書きが、星野をあの頃へと引き戻してくれた。

開幕ダッシュに成功した2003年の阪神は、5月12日に鳥取・米子へ入った。投宿先で「監督、書き置きを預かっています」と言われた。「米子で…誰だろ」。身に覚えがなかった。

星野さんが来るのを、みんなで待っています 良かったら、ぜひ参加して下さい

文末に「米子南高校野球部OB」とあり、代表者の名前と連絡先が書いてあった。「よし分かった! 今から行く。けど、店の場所が分からん。土地勘がない。迎えに来い!」。店に着くと、同年代とおぼしき男たちが笑顔を並べていた。「2、3人しか分からないわな。それも何となく。ハゲちゃったりして、面影もないし」。39年前の夏、倉敷商のエースで4番、星野が甲子園をかけて戦った米子南のメンバーだった。

当時は岡山1県で1代表ではなく、鳥取との2県で1枚のキップを争っていた。1964年(昭39)7月30日、東中国大会決勝戦。倉敷商は2-3で米子南に敗れ、甲子園を逃した。

不意の宴席はおおいに盛り上がった。口々に言われた。

--私は、星野君から三遊間を痛烈に破るヒットを打ったのだ

「え…そうなの?」

--星野君、オレのストレート、145キロは出てたよな!

「出てるわけないじゃん。140キロがやっとさ」

星野といえば、事細かな試合の内容まで覚えていなかった。「みんなにとっての宝物なわけだ。『あの試合』を鮮明に覚えている」。事実だけをハッキリ覚えていた。「4回に3点取られた。オレが間違えたのさ」。

前年の11月24日、両校は練習試合を行っていた。7回コールド、16-0で倉敷商の完勝。星野は被安打なしの10奪三振と完璧に抑え込んだ。

最後の夏、順当に東中国大会へとコマを進めた倉敷商は、準決勝で強豪の米子東と対戦した。延長10回、4番星野が右中間を破る三塁打を放ち、1-0でサヨナラ勝ち。最高の形で決勝に向かった。

一方の米子南は、準決勝でエースに森安敏明を擁する関西に9-8でサヨナラ勝ちしていた。

森安は、65年ドラフト1位で東映フライヤーズに入団した右腕。その剛球で入団から4年連続2桁勝利を挙げたが、いわゆる「黒い霧事件」で球界を追放されてしまう。無実を主張したまま50歳で病死し、語り継がれる存在となったサイドハンドだ。

当時の新聞には「星野 投打に活躍」「米子南 奇跡の逆転劇」「倉商に勝算十分」の活字が躍った。下馬評は完全に倉敷商だった。

決戦前夜。星野はまったく寝付けなかった。暑さからではない。緊張からでもない。高揚していた。ここまで35回2/3を投げて自責1。絶好調、勝てる-。「森安の関西が負けて、あの米子南が勝った。去年コールド勝ちした、あのチームとやるんだ。打たれるわけがないんだ。明日勝ったら…どうしよう」。初めての甲子園球場が「もう完璧に、頭の中に浮かんでいた」。こびりついて離れなかった。何度寝返りを打っただろう。「オレの中では西宮くらいまで行っていた。いや、甲子園駅の改札は出ていたんだ」。

    

「倉敷商業高等学校野球部史」に、ゲームの戦評が記されている。

1回無死一、二塁、2回は1点先取して、なお1死一、三塁。好機をつぶして、魔の4回となった。四球を含む4連打で3点を取られた。昨秋、大勝した相手だけに、心のどこかにスキがあったとしか言いようのない結果となった。(中略)星野投手を擁しても、甲子園出場ができなかった。甲子園とは実力だけで行けるところではないということか(後略)…。


東中国大会決勝で敗れ、うなだれる星野(右から2人目、倉敷商業高等学校野球部史より)
東中国大会決勝で敗れ、うなだれる星野(右から2人目、倉敷商業高等学校野球部史より)

400人の応援団が静まりかえった。「こんなバカなことがあるか。負けるわけ、ないじゃないか」。涙も出てこなかった。

一夜明け、お世話になった旅館・好日荘を離れるとき。仲居さんらが総出で、見えなくなるまで手を振ってくれた。現実を受け止めた星野は突然号泣し、周囲に驚かれた。伯備線に揺られて倉敷駅に着き、白い箱形の駅舎を出ると、普段は人影まばらな円形のロータリーに見知った顔があふれていた。「申し訳ない…あれは申し訳なかった。みんなが甲子園に行けると思っていた」。また大泣きしていた。

星野の存在は「倉商のエース」という枠を超えていた。繊維と重工業。元気いっぱいに戦後の高度経済成長期を生きる倉敷市民の希望だった。(敬称略=つづく)【宮下敬至】


◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日、岡山県生まれ。倉敷商から明大を経て68年ドラフト1位で中日入団。82年引退まで通算500試合に登板し146勝121敗34セーブ、防御率3・60。「巨人キラー」として巨人から35勝を挙げた。74年最多セーブ、沢村賞。87年に中日監督に就任。中日で88、99年、阪神で03年に優勝。史上初めてセ2球団を優勝へ導いた。04年に阪神シニアディレクター就任。08年北京五輪で日本代表監督(4位)。11~14年は楽天監督。13年に球団初の日本一。監督通算1181勝は歴代10位。03、13年正力賞。現楽天球団副会長。17年野球殿堂入り。現役時代は180センチ、80キロ、右投げ右打ち。

(2017年11月2日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)