全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第4弾は、PL学園(大阪)を率いた中村順司さん(71、現名古屋商大総監督)です。歴代最多の春夏通算6度の優勝を誇る名将の物語を、全5回でお送りします。


甲子園一塁側のブルペンで、胴上げが始まった。98年4月7日、第70回センバツ準決勝の試合後。敗れたPL学園ナインが、その一戦を最後に勇退する中村を胴上げした。「胸の中に、こみ上げるものがありました」。背中を支える手の1つ1つに中村は感謝した。

甲子園通算58勝10敗。8割5分3厘の驚異的な勝率。PL学園が甲子園に初出場した62年センバツ直後に入学し、76年夏の準優勝後の秋にコーチで母校へ。80年秋の監督就任後、春夏6度全国の頂点に立った。中村は、自由な発想、行動力でPL学園が全国に知られるようになる過程で高校生活を送った球児だった。

「プロ野球選手になりたい。レベルの高い大阪でやりたい」。中村は父亮を説得し、PL学園の門をたたいた。福岡・中間市の炭鉱町で理髪業を営む父は「PLでものにならんやったら俺の後を継げ」と息子に約束させ、大阪に送り出した。高校2年の冬、中村は異例の練習を経験する。兵庫・伊丹市にある自衛隊の伊丹駐屯地に、2泊3日の日程で野球部全員が送り込まれた。

中村 当時の寮長先生の発案。最初は「なんだ、こんなもの」と言い合ってたんですが、2日目に戦闘訓練が待っていました。

伊丹駐屯地では今も中・高校生らを対象に職場体験を実施し、ロープ訓練、格闘訓練、心肺蘇生法などを経験させる。当時の中村らは自衛隊の服を身につけ、半長靴をはいてほふくや半身で前進。体は擦り傷だらけになった。最終日の3日目は朝4時半に起床し、真冬の冷気の中、上半身ハダカで体操。そのあと「伊丹駅で事件発生。今からそこへ行く!」と指令が下った。重さ10キロの鉄砲をかついで6時から4時間半、(阪急)伊丹駅周辺を走り回った。朝食を取っておらず、空腹でへとへと。池のほとりでパンの店を見つけ、喜んだのもつかの間。「池の中に入れ」と新たな指令が下った。

中村 鉄砲がぬれないように気をつけながら、肩口まで水の中に入り、100メートルくらい歩きました。ひっくり返るヤツもいました。終わったのは朝の10時半。「飯は好きなだけ食べていいぞ」と言われたけど、とても食べられなかった。

普段から厳しい練習で体を鍛えている野球部員も、音を上げた。だがうれしい言葉が中村を待っていた。

中村 落後者もいた中、僕は全部のメニューをやれたんです。「この5人は大丈夫」と言われた中に入ってた。それは自分に対する自信になったんです。

あこがれの地・大阪は、夢の限界を知る場所になった。168センチ、59キロの小柄な少年に、プロになる夢は遠かった。だが中村は挫折しなかった。

高校3年の5月、PL学園体育館に「魔女」がやってきた。大松博文監督に率いられた日紡貝塚女子バレーボールチーム。その主力選手を主体に組まれた日本代表は64年東京五輪で金メダルに輝く。床に飛び込み、強烈なスパイクを回転レシーブで拾いまくる猛練習に中村は息をのんだ。世界を取る者の気概を見せつけられた。自衛隊での経験も含めて違う世界に触れ、中村自身の世界も広がった。指導者になるという新たな目標を見つけた。

(敬称略=つづく)【堀まどか】

◆中村順司(なかむら・じゅんじ)1946年(昭21)8月5日、福岡・中間市生まれ。PL学園から名古屋商大を経て社会人のキャタピラー三菱(当時)に進み、76年からPL学園のコーチ。80年に監督に就任した。81、82年にセンバツ連覇。83年夏、85年の夏と甲子園で優勝し、87年は春夏連覇。98年センバツ4強を最後に勇退し、同年に名古屋商大監督に就任。元パイレーツ桑田、元オリックス清原、阪神福留ら多くの名選手を育てた。

(2018年1月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)