全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える今年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第7弾は、興南(沖縄)監督として、10年春夏甲子園で連覇に導いた我喜屋優さん(67)です。現在は監督、理事長、校長と「3つの顔を持つ」我喜屋さんの物語を、全5回でお送りします。

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青い空、青い海。時を忘れさせてくれるような琉球のムードとは裏腹に、興南グラウンドの上空には、米軍の戦闘機が飛び交っている。1945年(昭20)、太平洋戦争で日本国内唯一、一般住民が巻き込まれた激しい地上戦の地、沖縄。我喜屋の姉も犠牲となった。七十余年が過ぎた今、球児が必死に白球を追い続ける姿に平和の2文字がにじむ。

我喜屋は高校3年生だった68年夏の甲子園で沖縄県勢初の4強入りを果たした。まだ米国の占領下にあった地元を「興南旋風」で熱狂させた。

甲子園では新聞記者に囲まれて「日の丸をみてどう思う?」「普段は英語中心の授業なの?」と矢継ぎ早に質問を浴びた。「普通ですよ」と答えるのが精いっぱい。少年ながら複雑だった。

興南監督に就いたのは07年で、その夏に24年ぶりの甲子園出場に母校を導く。10年は春夏連覇を遂げ、沖縄を「野球王国」と言わしめた。

我喜屋 私は「野球バカ」を作ってはいけないと思ってます。それが信条です。強豪校の選手になるとスカウトに声を掛けられてプロ入りを意識するでしょ。いい選手ほど野球漬けになりがちです。野球をとったら何も残らない、野球はうまいが社会人としては通用しないという野球バカには育てたくない。大切な子供たちを任された以上、ちゃんと育てて、必ず付加価値をつけて次のステージに送り出したいんです。

自身の人生が常に逆境との戦いだったからこそ、「野球を通して社会に役立つ人材を育てたい」と言い切れるのだろう。

沖縄南端の地で貧しい幼少時代を過ごし、養子にも出て、高校では雑用係から主将になった。大昭和製紙富士の社会人時代は北海道への転勤を経験する。

だが、73年都市対抗野球大会でベスト8、74年は「5番打者」で雪国のハンディを克服して頂点に輝いた。高校、大学、社会人を通じ、優勝旗が津軽海峡を渡るのは初めてのことだった。

我喜屋 甲子園は努力した成果を示す1つの舞台です。勝ち上がった選ばれしものしか行けない。野球は人生の「道」です。だからその過程が大事。アメリカは「プレー」を優先するかもしれないが、日本は「道」。古い考えと思われても結構です。しかし、高校球児の真摯(しんし)な心が身なり、態度に表れるから人の心を引きつける。野球は世の中の縮図なんです。

沖縄の風土には「うちなータイム(沖縄時間)」といって、時間にルーズな気質があった。また、「なんとかなるさ」という意味の「なんくるないさ~」という方言が存在する。

我喜屋 沖縄の楽観的考えを改めないとダメだと思いました。野球が終わった後のほうが人生は長い。甲子園は人生が終わる場所じゃない。だから、甲子園で負けて泣きじゃくることを絶対に許さない。試合に負けると泣きじゃくって同僚に抱えられながら引き揚げてくるシーンを見る。甲子園に出てうぬぼれるのはもってのほかで、高校野球はジ・エンドかもしれないが負けて学ぶのが甲子園。悔しい思いをぐっとこらえて「ありがとうございました」というのが筋。常に「なんくるないさ~」の人間では困るんです。心を鍛えないと、体を鍛えても意味がありません。

選手として、指揮官として、多くの快挙を積み重ねてきた「我喜屋マジック」は、いかにして生まれたのだろうか。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

◆我喜屋優(がきや・まさる)1950年(昭25)6月23日、沖縄県生まれ。興南で68年夏の甲子園では4番中堅手、主将も務め4強入り。当時の沖縄県勢の甲子園最高成績を飾った。高校卒業後、大昭和製紙富士(静岡)入り。72年に大昭和製紙北海道へ移り、74年都市対抗優勝。89年に大昭和製紙北海道の監督に就任。翌年から4年連続で都市対抗に出場した。07年から興南監督。10年に史上6校目となる春夏甲子園連覇。夏は沖縄県勢として初の優勝だった。

(2018年2月1日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)