1915年(大4)に「全国中等学校優勝野球大会」として始まった、全国高校野球選手権大会は今夏、100周年を迎えます。歴史を彩ってきた選手や名勝負、明暗を分けた1球など、さまざまな角度から高校野球の魅力をひもときます。第1回は巨人、ヤンキースで活躍した松井秀喜氏(40)の単独インタビューです。いまも語り継がれる5打席連続敬遠で得たものや魅力をたっぷりと語ってくれました。これからも続くドラマの主役となる球児たちへ、「未来へ」と題してお届けします。

 いつも落ち着いた口調で淡々と話す松井氏が、時折感情を込めて、熱く語り出した。プロとして残した偉大な実績の一方で、高校野球への思いは人一倍強い。メジャー挑戦後こそ、なかなか情報を入手できなくなったが、かつては自称「高校野球オタク」を公言していたほど熱心に観戦していた。その当時の優勝校や選手名などの詳細な記憶は、極めて正確だ。

90年夏の甲子園 2回戦の日大鶴ヶ丘戦で打席に立つ松井
90年夏の甲子園 2回戦の日大鶴ヶ丘戦で打席に立つ松井

 「最初に見たのは、ちょうど池田(徳島)が強かった頃かなあ。水野(雄仁)さん(池田―巨人)とかがいて、荒木大輔さん(早実―ヤクルト)がフィーバーしていた頃かな。ただ、ハッキリ記憶に残っているのは、星稜―箕島(79年)なんですよ。なぜかと言うと、あの試合だけはナイターでやっていたから。地元の高校だから、家族全員で見ていました。それは幼心に何となく覚えているんですよね。小学校に入る前ぐらいだったけど、みんなでテレビにかじりついて見ていた記憶があります」

 小学3年から野球を始め、田園地帯が広がる石川・根上町(現能美市)の自宅前の原っぱで、夢中で白球を追いかけた。最初の目標は、おのずと高校野球で甲子園へ出場することになった。

 「プロ野球選手になりたいというよりも、甲子園に出たいという思いが強かったんです。その当時、プロ野球はあまりにも遠い世界でしたからね。甲子園は憧れの存在だったし、地元の人が出ていたりするから、自分の身近な目標としてありましたね」

 根上中時代から「超中学生級」の打者として知られていた松井氏は、星稜に入学するとすぐに4番を任された。3年に村松有人(ソフトバンク3軍外野守備走塁コーチ)ら有力選手をそろえていた当時の同校は、夏の石川県大会を順当に勝ち抜き、甲子園出場を決めた。1年夏に初めて聖地に足を踏み入れると、独特の雰囲気に圧倒された。

 「まず、デカいと思いましたね。あの大きさ、サイズの球場でプレーしたことがなかったですから。平常心でいられなくなる、そういう感じがありました。それこそ浮足立つ、そういう感じでした。田舎育ちの16歳。いきなりあんなところに出てしまって、やっぱり緊張しましたね」

 2回戦の日大鶴ケ丘(西東京)戦は、「4番一塁」で先発出場した。顔色こそ変えなかったが、これまでに経験したことのないほどの緊張感に襲われた。

 「第1打席は、自分で足が震えていたのが分かりました。おそらく、打席で足がブルブルとなった記憶はその時ぐらいです。巨人に入った時の東京ドームや、メジャーに行ってからヤンキースタジアムで初めて打席に立った時も、足が震えることはなかったですから。ただ、甲子園の時だけは別でしたね」(つづく)