スピードガン表示と、打者の体感速度は違う-。花巻東(岩手)大谷翔平投手(20=現日本ハム)が160キロを出すなど、高校生も150キロ台を連発する時代に突入。その中で、スピードガン誕生前の作新学院(栃木)江川卓(59)こそ最速という声は根強い。プロでは最速151キロといわれるが、高校時代はもっと速かったのか。怪物が語る、スピードとは。(敬称略)【後編】

73年8月、作新学院・江川(後方)は銚子商戦の12回、押し出し四球を与えサヨナラ負け
73年8月、作新学院・江川(後方)は銚子商戦の12回、押し出し四球を与えサヨナラ負け

 高校3年の夏も、江川は怪物であり続けた。栃木大会で5試合中3試合ノーヒットノーランで、最後の甲子園に乗り込む。1回戦柳川商(福岡)戦で延長15回23奪三振完投すると、2回戦は銚子商(千葉)と対戦する。

 8回から降り出した雨は、次第に強くなった。0-0の延長12回。1死満塁のピンチを招き、カウントは3ボール2ストライク。

 ここで初めて自らタイムをかけて、ナインをマウンドに集めた。個性派集団だった作新学院は、仲がいいチームではなかった。誰が活躍しても、江川だけが注目を集める状況に、不協和音が生まれていたという。心身共に疲れ果てていた状況で、最後の1球を投げる前に、初めて仲間に問い掛けた。

 「自分の、速いボールを投げたい」

 「当時の状況考えると、『ふざけんじゃない』っていう言葉が返ってくると思っていたんですよ。まだ試合やっているんだから、ちゃんと投げろって言われると思ったんですよ」

 仲間から出たのは、予想外の言葉だった。「お前がいたから、春夏両方甲子園に来られたんだから、いいから好きに投げろ」。

 高校生活最後のボールは、高めに外れる直球だった。押し出し四球でサヨナラ負け。怪物は、雨に散った。ただこの瞬間を、最高の思い出と語る。

 「なんだかすごくさわやかな気分で投げたんです。僕の中で、甲子園や予選含めて、一番速いボールはどれですかって聞かれたら、そのボールなんです。高めに外れましたけど、初めて、一番速いボールを投げようと思って投げたボールですから」

 雨の中、疲労がピークだった延長12回の最後の1球。きっと一番速いはずはない。それでも理論派の江川が、理論を忘れて信じるボールがある。仲間に背中を押された、忘れられない1球。これも高校野球の魅力。スピードガンがなかった時代のロマンなのかもしれない。(おわり)【前田祐輔】

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◆対戦者が語る「怪物」江川

中日達川光男チーフバッテリーコーチ(59=広島商3年センバツ準決勝で対戦し小技で江川攻略)「やっぱりもう驚きじゃ。高校生どころか大人でもあんな大きい野球選手いなかった。江川見てからこれじゃ打てないって自分に1日500スイングのノルマを課した。『打倒江川』ってノートに書いた。わしらは江川世代。プロに行けたのも彼のおかげ」


 国際武道大・岩井美樹監督(60=銚子商3年夏に江川擁する作新学院から勝利するなど、通算2勝6敗)「(大学日本代表監督を務めるなど東海大を含め監督歴35年目)江川より速いピッチャーを長いこと探しましたけど、江川が1番。150キロ台後半は出てました。けた違い。江川のボールはホップするから、ボールの下を振る。今の子はだいたいボールの上を振りますから」


 中日石井昭男スカウト(59=東海大相模時代に練習試合で対戦)「高校時代が一番速かった。初速は速くないけど、途中で1度止まって、ボールがだんだん大きくなって向かって来る感じ。打つとか打たないじゃなくて、当たるか当たらないか。スピードガンは150キロぐらいかもしれないが、見た目は160キロは出てました」

 
 

 ◆スピードガンはスカウトやマスコミが79年春には甲子園球場に持ち込んでいた。ただ、79年春はスカウトの一部が器材を十分に使いこなせず、手元がおぼつかなかったという。本格的に普及したのは80年以降という区切り方が定着している。甲子園で150キロ以上を出したのは今年のセンバツの高橋(県岐阜商)まで20人。今でこそ150キロは珍しくないが、本格的に計測が始まった80年を起点にすると、98年春に松坂(横浜)が初めて150キロに到達するまで18年かかった。

 150キロに1キロ届かなかったのが80年夏の高山(秋田商=現オリックス投手コーチ)。田川戦の1回に、本紙の計測で149キロを出した(巨人のスピードガンは147キロ)。球速は公式記録ではないため報道機関によって1、2キロの違いはあるものの、松坂が登場するまで高山を超える者は出なかった。【織田健途】