連日の猛暑日。炎天下で真っ黒に日焼けしてグラウンド整備に余念がない。渡真利克則さん(53)がその人。現在はこのコーナーのタイトルがぴったりの“鳴尾浜球場専属”のグラウンドキーパー。所属先は甲子園と同球場のグラウンドを束ねる阪神園芸(株)の職員。仕事道具をバットからトンボに持ち替え、後輩達の成長を願って黙々と場内を動きまわっている。顔には玉の汗。仕事着のTシャツはビショビショ。絞ろうものなら水につけていた布のごとく汗が出てくる。元気だ。まだまだ若い者には負けていない。

 元はといえば、プロ野球の現役プレーヤー。1981年。ドラフト2位。沖縄は興南から大型内野手の期待を背負って阪神タイガースへ入団。10年間プレーしたあと福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)へ移籍。2年間在籍して現役を引退。セ・リーグの審判員として活躍していたが、不運もあって現在に至っている。今回はちょっぴり話題を変えてみた。

 元気とはいえ53歳である。体を酷使している。過酷な労働に見えるが「まあ、元気です。この仕事ですか……。幸せですね」意外な返事だったが顔は笑っている。なるほど。渡真利さんの気持ちはすぐわかった。私もいまだ、こうして野球に携わった仕事をしているが「好きな野球に携わっていられることが楽しいし、幸せなんですよ」同氏がこう付け加えた。まさにその通り。私、77歳で日刊スポーツの好意で、喜んで原稿を書かせていただいているのは野球が好きだからだ。渡真利さん。おそらく若い選手の成長度、あるいは気分の乗っている時、落ち込んでいる時など選手の一喜一憂を観察して、自分の現役時代を思い出しているはずだ。

 人生、順風満帆とはいかないのが世の常である。10年少々、アンパイア生活が軌道に乗ってきた。充実した人生を楽しもうと夢見た矢先にアクシデントに襲われた。2006年4月21日。東京ドームは巨人-阪神伝統の一戦。球審は渡真利。「何回だったかなあ……。確か3回か4回だと思う。マウンドには井川(当時阪神)がいたような記憶がある」突然、崩れ落ちるように倒れた。意識はない。病院に救急搬送された。結果は命には別条なく不整脈の中の心房細動と診断された。一旦は入院したものの生活がかかっているし、審判の仕事にも未練があった。「復帰できるということでしたので、いろいろな病院で検査してもらいましたが、やはり……」その後、3年間はセ・リーグの大阪事務所に勤務したが「パソコンの生活が合わなくて」阪神園芸への入社となった。

 唯一悔いを残したのは「審判員として日本シリーズに出場できなかったことですね。アンパイアとしてひとつの目標にしていましたし、アクシンデントがあった年は“もう、今年あたりはその時期にきている”と思っていた年だっただけに残念です」このときばかりは悔しさが表情ににじみ出ていたが、年月の流れがわだかまりを解消している。平常心に戻るのは早かった。27歳の長男を含めて1男2女の父親。一時は購入した家の住宅ローンが払えず、その家を売り払って生活した時期があった苦労人。現役時代はイップスにかかって送球に悩んだことも。どん底を体験した男だけに現在の状況を考えると「幸せ者」ということになる。

 トンボをかける姿。バッターボックス等ラインを引く姿。ホースを手に水をまく姿。いずれの姿もバッチリ決まっている。7年目。今の仕事が板についてきた。「もう、阪神園芸さんにお世話になって7年目に入ります。自分も現役時代、グラウンドについての思いはありましたし、選手の気持ちになって整備しています。コツといいますか、やっとわかってきましたが、グラウンドを整備する一番大事なのは水加減ですね」プレーヤー。アンパイア。グラウンドキーパー。その都度ノウハウを勉強した。大好きな野球に携わっている幸せ者。いっそのこと、若い選手の気持ちがわかる“鳴尾浜の主”になってほしい。【本間勝】

(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「鳴尾浜通信」)