小野仁さん(41)は駆け足でロビーに現れた。まだ、待ち合わせ時間より5分ほど前だった。「お待たせしてすみません」。明るい声でそう言うと、社内を案内してくれた。

 小野さんは昨年10月から、白寿生科学研究所に勤めている。ヘルスケア機器や健康食品の開発や製造販売を手掛ける会社だが、アスリートの支援やセカンドキャリアにも熱心に取り組んでいる。

 彼は総務部人材開拓課に所属し、運動部に所属する大学生に進路説明をしている。


現在働く会社の前に立つ小野さん
現在働く会社の前に立つ小野さん

 小野さん(以下、敬称略) 希望に満ちた若い大学生にリンクするか分からないのですが、場合によっては自分の経験を話しています。中途採用を目指す人には100%、経験談を話していますね。


 経験談とは引退後の約13年間を指している。2003年限りで近鉄を解雇され、翌04年から無職になった。以降、現職に落ち着くまで何をしていたか。そう聞くと、小野さんは指折り数えながら経験した職業を語り始めた。


 小野 最初は横浜市内の市場ですね。ターレーで魚を運ぶアルバイトでした。それから一時は選手復帰を目指すのですが、あきらめて…床清掃、パンの配送、佐川急便、イスの製造工業、焼き鳥店にも勤めました。その合間にいろんなアルバイトもしていますよ。キャバクラの黒服で接客したこともあります。


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 小野さんは秋田経法大付(現明桜)時代に快速左腕として名を上げた。

 高校3年生だった1994年6月30日。宮城球場(楽天生命パーク宮城)で行われたキューバ戦と日本選抜との親善試合で、パチェーコ、リナレスという主軸打者を2者連続で3球三振に仕留めた。キューバのフェンテス監督は「キューバに連れて帰りたい」と絶賛した。

 日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場した。ドラフト凍結選手といって、本来は3年間プロ入りできないところを彼は2年間で許された。五輪に出場させるための特別措置だった。

 96年に逆指名してドラフト2位で巨人に入った。彼自身、輝かしい将来が待っていると信じていた。だが、栄光とは縁遠いプロ野球生活だった。

 新人だった97年に1勝、翌98年に2勝を挙げたが、結局7年間に及ぶプロ生活で稼いだ白星はこれだけだった。

 02年オフに近鉄にトレードされ、03年限りで戦力外通告を受けた。


 小野 イップスだったんですよ。もうストライクがまったく入らなくなった。8連続四死球もありましたからね。球団から、もう施しようがないと判断されたんでしょうね。


 実際の記録は6連続の1イニング8四死球である。2003年4月15日、ウエスタン・リーグの広島戦のことだった。

 ただ、戦力外通告を受ける覚悟はできていなかった。


 小野 藤井寺球場のスタンドを走るトレーニング中でした。球団の人に「そのメニューが終わったら来てくれ」と言われて、息を切らせたまま部屋に入ったら、「来季の契約はしない」と言われました。「ハア、ハア」と息切れしたまま「はあ」と返事しました。年俸が半分ぐらいまで落ちるかなとは思っていましたが、戦力外とは思っていませんでした。どうやってイップスを克服しようか。そればかり考えていましたから。


1993年センバツ、秋田経法大付の小野仁投手
1993年センバツ、秋田経法大付の小野仁投手

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 私は新入社員だった1993年、高校2年生だった小野さんと出会った。この夏は甲子園でも取材した。翌94年は彼の進路を取材するため、秋田で密着した。

 同年秋の広島アジア大会の直後には彼から「金メダルを見せますよ」と連絡をもらい、喫茶店で待ち合わせた。ところが席に座った彼はメダルを持っていない。指摘すると「あっ、自転車のカゴに置いてきちゃった」と慌てて、店の外へ出て行った。2人で大笑いした覚えがある。

 彼は五輪やプロでの活躍を夢見ていた。それを私が取材して原稿にする。そんな話もした。小野さんは18歳、私は25歳だった。

 4年後に巨人担当記者として再会したが、彼は2軍ばかりで取材する機会は少なかった。

 次に会ったのは04年の米国フロリダだった。私はヤンキースに所属していた松井秀喜選手の担当記者として現地にいた。ツインズとのオープン戦で、小野さんから声をかけられた。

 近鉄を解雇された彼は、メジャーに活路を見いだそうとツインズのキャンプに参加していた。直前に婚姻届を出しており、新しい家族のためにも再起をかけて臨んでいると聞いた。激励して別れた。

 しかし、アメリカに残ることはできなかった。

 以来、彼とは連絡が取れなくなった。空白は13年間にも及んだ。


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 2016年になって、フェイスブックを通じて彼と連絡が取れるようになった。何度かやりとりをして再会も果たしていたが、会えなかった期間について聞くのは初めてだった。小野さんは41歳、私は48歳になっていた。

 --フロリダで会ってから13年が経った。そんなに職を変えていたとは知らなかった。


 小野 アメリカから帰った時はショックが大きくて、何をする意欲も湧かなかった。ただボーッとして、犬の散歩に行くぐらいでした。3月から9月まではそんな感じ。さすがに「このままではまずい」と思ってタウンワークでアルバイトを探しました。それが市場の仕事です。まだ引退直後だったから「小野君だよね?」と気付かれて、よく魚とかもらっていました。


 --トレーニングもしていなかった。


 小野 そうですね。でも、翌年(05年)からは再開しました。イップスで戦力外になったけど、スパンを設ければ治ると思っていたから。もう1度、現役を目指そうと練習を始めました。自宅周辺の公園やグラウンドで壁当てをやっていました。


 --イップスは治っていた。


 小野 壁当てではいいんですよ。でも、しばらくして投球練習になったらダメ。打者を立たせたら、まったくダメです。ストライクが入らない。秋のトライアウトを受けたけど3四球で終わり。もう治らないんだと現役はあきらめました。


 --そのときは奥さんがいた。その後に離婚したと聞いた。


 小野 妻の両親と同居で、最初は励ましてもらっていたけど、そりゃあ関係もギクシャクしてきますよ。僕が次の目標に向かっているならともかく、食いつないで生きているだけですから。彼女から見て、まったく格好よくないでしょう。


 --いろんな職業を転々とした。市場はタウンワークで探したと言っていた。


 小野 他もタウンワークが多かったですね。高収入の欄だけを見ていた。勤務地とかどうでもいい。とにかく収入の高いところでした。


 --キャバクラの黒服って…


 小野 女の子がお客さんに「野球好きですか?」と聞くんです。「好き」という方がいたら、僕が登場して、野球の話で盛り上げる。僕を知らない人がいたら、(アトランタ五輪の)銀メダルを見せたりね。そんなこともしていました。


 --焼き鳥店では料理もしていた。


 小野 そこでは独立支援制度があって、出店も勧められた。正社員にも誘って頂いたけど、踏ん切りがつかなかった。お客さんの対応はいいんですけど、料理がね。フライパンを返したりできなかった。それで心が折れました。


 --故郷の秋田に戻ろうとは考えなかったのか。


 小野 戻ったら何のために出てきたのか分からないし。両親にも頼らなかった。ピッチャーは何事も自分の責任なんですよ。野手にエラーが出たって、そういう打球を打たせた自分の責任。だから自分で何とかしたかった。ただ、前職は知人のお世話になって会社に入りました。そこで人材開発の仕事に出会って、今の会社に移ってきました。


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 高校時代のフォームは美しかった。

 プロで投げ方を忘れ、輝きを取り戻せないままに終わった。それが残念でならない…思わず、そう口に出そうになったが、辛うじて止めた。

 私にとっては「空白の13年間」だが、彼はその間も必死に生きてきた。決して空白などではない。

 彼にとって必要な時間だった。きっと、そう思える日がくるだろう。

 -頑張れよ-

 心の中でつぶやきながら、彼の会社を後にした。【飯島智則】