もう、あのノックが見られないのが寂しい。帝京(東京)・前田三夫監督(72)がこの夏でユニホームを脱いだ。前田監督といえば、試合前のノック。流れるように狙ったところへピタピタと打っていく姿に、毎回ほれぼれした。

極意を聞いたことがある。「ノックバットは、首を軽く持つように。ギュッと握っては駄目です。手のひらの中で遊ばせる。そうすれば、スパーンと、いい打球がいきます」。力まないから、どんなにノックしても、手のひらにマメができなかった。余裕を持たせることで、芸術的な動きが生み出された。

こだわりも聞いた。「いつまで続けられるか分かりませんが、監督をやっている以上はノックしたいですね。ベンチから見てるだけの監督にはなりたくない。一番、選手の状態が分かる。打球に対し、どう反応するか。だから、トレーニングを続けるんです」。コロナ自粛中も、1日300回のスクワットを欠かさなかった。往復20キロはある、かかりつけの病院まで自転車で通った話も聞いた。外野ノックはコーチに任せるようになったが、内野は変わらず自分で打っていた。とても70歳を超えた方の動きには見えなかった。

選手はどう受け止めていたのだろう。今夏まで主将を務めた武藤闘夢内野手(3年)は「とても捕りやすくて(捕球の)形ができるノックでした。バウンドの跳ね方も含め、狙ったところに打ってくれました」と感謝する。何より「ノックしていただくと、気合が入りました」。さあ始まるぞ、と気持ちを高める大事な時間だった。

前田監督は「ノックをしてて『うまくなったなあ』と」思う瞬間が好きだった。「力がA、B、Cの選手がいたら、Bの選手を育ててAにするのがうれしい」という。二流を一流に引き上げる。その醍醐味(だいごみ)を盆栽に例えた。「あっちを直し、こっちを直し。刺激を与え、枝葉を付け、見栄えをよくしていく」。盆栽はたしなまないが、完成図を想像しながら手塩にかけていった。

監督は退いたが、この秋も教え子たちが戦っている。先日のブロック予選1回戦は大勝スタートだった。甲子園で立派な枝葉をつけた選手たちを見る日を、名誉監督は待っている。【古川真弥】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)