県内トップの進学校でありながら甲子園制覇を目標に掲げる鳥取県立の米子東を訪ねてきた。紙本庸由(のぶゆき)監督(40)がきめ細かな強化メソッドを作り、勉強と野球を両立させる取り組みに触れた。

野球部員は3学年で33人。今年は東大志望の生徒もいる。ほぼ全員が現役で難関大学に合格し、浪人生の中にも医学部志望が多い。スポーツ推薦などもちろんない。そんな頭脳派集団でありながら、本気で野球の日本一を目指している。近年でも19年春夏、そして昨年夏と3度も甲子園に出場と確かな実績を残す。紙本監督の教えには、以前から興味があった。

「うちは待っていても能力の高い選手は手に入らない。だから『作る』しかないんです」。その言葉にはすごみを感じた。

冒頭で文武の「両立」と書いたが、同監督は「文武不岐(ふき)」と言う。学業と野球に隔たりはない、がモットーだ。選手への要求は厳しい。「日本一早い成長」を求め、無駄を徹底的に省いた思考力、トレーニング。だが、不思議とそこに息苦しさはない。

「生徒にも言うんですが、僕はクズみたいな人間なんですよ(笑い)。自分がそうやってきたわけではないですから。学生時代はいろいろ言い訳しながらやっていました」。監督自身が弱みをさらけ出しているからかもしれない。

転機になったのは鳥取大3年時だった。夜中にニュースを見ていたら、1学年上で、対戦経験もあった浜田(島根)OBの和田毅(現ソフトバンク)が早大のエースとして大活躍していた。明治神宮大会優勝のパレードの様子が映されていた。山陰の隣県で、高校の時には対戦もしていた。当時から好投手だった和田だが、身近な存在の躍進に「すごい差がついちゃったなあ、と思って…」。むなしくなって、テレビの前で涙を流したそうだ。

それまでも野球指導者を志望していたが、どこかおぼろげだった。画面越しに見た和田の活躍で、腹は決まった。「人生1回きりですから。変な自信だけはありました。俺だって本気さえ出せばと(笑い)。本当に本気を出したらどこまでいけるんだろうと。死ぬときに『俺は本気出したぞ』と振り返りたいなと思って」

山陰勢の甲子園最高成績は1960年、米子東がセンバツで果たした準優勝だ。決勝で高松商にサヨナラ負けし、目前で悲願を逃した。後にも先にも決勝進出すらその1度だけ。

「彼らなら絶対できる。特別なことじゃないと思います。僕が高校のときよりずっと頑張っています。いつも、すごいなあと思って見ています」。まだまだ夢の途中だが、紙本監督は偉業の可能性を信じて疑わない。【柏原誠】