岩波書店の「広辞苑」が10年ぶりに改訂され、1月12日に発売された。現代生活に必須とされる新語1万語が加わった。

 現代語では「朝ドラ」「いらっと」「自撮り」「婚活」など、カタカナ語では「アプリ」「スマホ」「クラウド」などと共に、この言葉が入った。

 イップス。

 広辞苑では、次のように説明されている。

 『これまでできていた運動動作が心理的原因でできなくなる障害。もとはゴルフでパットが急に乱れることを指したが、現在は他のスポーツにもいう』


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 この語の誕生は1930年代と言われているので、約90年の時を経て日本で一般化されたことになる。

 イップスの語源は「yip(イップ)=子犬がキャンキャン叫ぶ」とされる。

 1930年代にプロゴルファーのトミー・アーマーが、緊張するパッティングで手のけいれんなどが出るようになり、引退を余儀なくされた。アーマー自身が、のちに自分に起きた現象を「イップス」と表現した。これが始まりと言われている。

 以後、イップスとは、スポーツなどで突然思い通りの動きができなくなる症状を指してきた。

 ゴルフはもちろん、野球、テニス、ダーツでもイップスは起こるとされる。スポーツ界では古くから浸透している言葉だった。

 一般化された理由は多々あるだろうが、野球界においては、この人のカミングアウトが大きいのではないだろうか。

 日本が誇るスーパースター、イチロー選手である。


愛工大名電時代のイチロー(91年センバツ)
愛工大名電時代のイチロー(91年センバツ)

 2016年3月15日にテレビ朝日系列「報道ステーション」で、稲葉篤紀氏(現・侍ジャパン監督)によるインタビューが放送された。

 この中で高校時代の話に及んだ際、イチロー選手が打ち明けた。


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 「ピッチャーを続けたいというのはあったんですけど、途中、僕イップスになっちゃったんで」

 時期は「高2の春」で、原因は「僕らの時代は1年生の僕らがゴミで、2年生が人間、3年生が神様っていう位置付けなので。ゴミが神様に投げるわけですから、それは大変なもんですよ。それでイップスに」と語った。

 「一番の僕の野球人生のスランプでしたね」

 「プロに入って治ったのは97年ぐらい。(96年)日本一になったとき、僕はまだイップスでしたから」

 「あんな、しんどいことないですよ」

 さらに、いかに克服したかを問われた際には、次のように答えている。

 「センスです。これは努力ではどうしようもない。センスです」

 

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 イチロー選手も悩まされたというイップスとは、一体どのようなものか。検証していきたい。

 私は、横浜市内のイップス研究所に出向いた。所長を務める河野昭典氏(59)は、これまでにプロ、アマを問わず5000例を超えるイップスに対処してきた。プロ野球のソフトバンクでメンタルアドバイザーを務めた経験も持つ。


 河野氏 簡単に説明しますと、イップスとは「今までできたことが急にできなくなる」という症状です。スポーツだけでなく、生活習慣の中でも、できていた行動ができなくなる場合があります。


 具体的にはどのような症状が起きるのか。


 河野氏 語源になったように、ゴルフのパッティングで震えが出てしまう。野球で簡単に届く近い距離で、力加減ができない。ロボットのようにギクシャクした動きになってしまう。手や指先に力が入らない…症状はいろいろあります。自分の体が思うように動いてくれない状態です。


 スポーツ以外のイップスとは。


 河野氏 うちには、そば打ちの名人が来たこともあります。思うように打てなくなったと。楽器の演奏家や、美容整形の先生がメスを持つと震えてしまうと来たこともありました。作家がペンを持てない。会社に行けない…電車に乗ると具合が悪くなる。これも以前はできていた行動ですから、イップスと呼んでいいでしょう。


 イップスに悩む選手は増えているのだろうか。


 河野氏 増えていますね。私はイップスだけで5000以上の例を見てきましたが、ここ10年で10倍ではきかない。数十倍といっていいでしょう。


イップス研究所の河野昭典所長
イップス研究所の河野昭典所長

 ある時、大学の野球部員の前で話す機会があった。全日本大学野球選手権にも出場する名門校だった。


 河野氏 最初に監督さんと話したら「うちにはイップスが5人もいるんです」と、名前も挙げていました。ところが選手の前で私が「自分がイップスだと思う人はいる?」と聞いたら、何と38人が手を挙げた。大多数がメンバー入りしている選手でした。監督さんもビックリしていました。


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 もう1人、イップス克服の専門家に聞いてみたい。

 東京・町田市でトレーニングサポート研究所を開く松尾明氏(48)である。同氏は西日本短大付、青学大、そして社会人の明治生命(現・明治安田生命)でプレーしていた野球選手だった。


トレーニングサポート研究所の松尾明氏
トレーニングサポート研究所の松尾明氏

 松尾氏 イップスは、ある特定の動きにだけ反射的に起こる運動機能障害と考えています。例えばテークバックの途中で腕が止まったり、引っ掛かったりしてしまう。ボールを落としてしまう。逆にボールが離れない。すっぽ抜けてしまう…いろいろありますね。


 イップスに悩む多くの選手と対してきた。


 松尾氏 そういう選手は、みんな「投げ方が分からなくなった」と言います。不思議に思うでしょうが、どこから、どう動かしていいのか分からなくなってしまいます。その結果が先ほど挙げたような症状になります。これは一部で、もっといろいろな症状がありますよ。


 投げる時、どうしても腕が頭に当たってしまう選手もいたという。


 松尾氏 当てなければいいと思うでしょう。でも、当たってしまうんです。イップスは、意に反する動きが定着してしまった状態を指します。


 なぜ、そのような症状が起きてしまうのか。原因から探っていきたい。(つづく)【飯島智則】