トレーニングサポート研究所の松尾明氏(48)は、自身もイップスに苦しんだ。

 スリークオーターからサイド、そしてアンダースローに変えた。ボールを持つ手が、地面に当たってしまう。当てないように意識しても、体の動きを制御できなかった。

 イップス克服を指導するようになってから、投げる際に腕が頭に当たってしまう選手が来た。


 松尾氏 私と同じです。当てないようにすればいいと思うでしょうが、どうにもならないんです。彼とは公園でキャッチボールしましたが、周りで遊んでいる子供に笑われました。彼の苦しみ、私はよく分かりました。


西日本短大付時代に投手として登板する松尾氏
西日本短大付時代に投手として登板する松尾氏

 松尾氏は西日本短大付から青学大、そして明治生命(現・明治安田生命)とエリート街道を進みながら、投げ方に悩む日々だった。

 社会人1年目に投手失格となり、外野手に転向した。そのままイップスを克服できないままに戦力外通告を受け、マネジャーに転身した。


 松尾氏 その後も頭の片隅に投球があったんです。大会でスコアをつけていた時、ある選手の安定感あるスイングが目に留まりました。その時「ハッ」と気付いたんです。


 体が安定したフォームにヒントを得た。マネジャーの仕事を終えた後、仲間にキャッチボールを依頼した。すると、現役時代には感じられなかった心地よさが戻っていた。これが、現在の指導の基本になっている。


 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 次に、イップス先生こと、イップス研究所の河野昭典氏(59)による指導を見ていきたい。

 指導を受けたイップス経験者は、すでに克服できた自信があり「実名で構いません」と言ってくれた。

 BCリーグ信濃グランセローズに所属するサブマリン、浅見修兵投手(23)である。


BCリーグ信濃グランセローズに所属する浅見修兵投手
BCリーグ信濃グランセローズに所属する浅見修兵投手

 彼は今季に勝負をかけている。大学を卒業して就職したものの、会社を辞め信濃に入団して2年目を迎える。目標は、日本プロ野球組織(NPB)のドラフト会議で指名されることだ。


 浅見投手 今年が最後という気持ちで臨みます。ここまで野球を続けられて幸せに思っていますし、両親をはじめ多くの方に恩返しをしたいです。


 本庄東高校時代に河野氏のもとを訪れた。


 浅見投手 河野先生は私の恩人です。先生に出会わなければ、高校時代で野球は終わっていました。それが今でも大好きな野球ができているんですから。


 中学時代はオーバースローの投手だったが、高校に入ってからは結果が出なくなった。


 浅見投手 コントロールはそれなりだったと思います。でも、コーチの方に指導してもらい、いろいろと工夫しているうちに、投げ方が分からなくなってしまいました。


 ストライクが入らない。スピードも出なくなった。何とかしようと腕を振るが、球に力は入らなかった。


 浅見投手 引っ掛かる時もあれば、抜けてしまう時もある。何よりスピードを出そうと力いっぱい腕を振ろうとするんですが、振れないんです。腕が出てこないというのでしょうか。自分の体が思い通りに動かないんです。


 2年に進級し、後輩が入部してきた。この時、同級生に言われた。


 浅見投手 1年生の指導係になりました。同級生から「お前は試合で投げていないんだから」と言われて…。何か野球に気が入らなくなりました。たまにマウンドに上がってもキャッチャーが怖くて。ストライクが入らないから、イライラした様子が分かるでしょう。申し訳ないなと思いながら、もう怖くて投げられなくなりました。


 練習では、新入部員と一緒に行動した。「次はこの練習だよ」「こういう準備をしよう」などと指示を出した。もはや戦力にはならないと感じた。


 浅見投手 高校3年間は何とか続けて、そこで野球をやめようと思いました。もう無理だなと。


 大好きな野球から離れると決めても、さびしささえ感じなかった。

 そんな姿を見かねた父から、イップス研究所に誘われた。浅見投手には2人の兄がいて、ともに強豪校で野球をしていた。長兄がやはり高校時代に精神的な悩みを抱え、河野氏に指導を受けた経験があった。


 浅見投手 兄が悩んだ時、父はインターネットでいろいろ調べて電話をかけまくったそうです。その時に河野先生が一番親身になってくれたそうです。私にも「河野先生のところに行こう」と声をかけてくれました。


 浅見投手の実家は、埼玉県の北西にある。横浜市内のイップス研究所まで100キロを超える道のりを、父が運転する車で向かった。(つづく)【飯島智則】