権藤博氏(79)にイップスについて聞こう。そう思った理由は過去の記憶にあった。

 横浜(現DeNA)の監督だった頃、遠征時にパターを持参していた。理由を聞くと「パッティングのイップスになってしまった」と話していた。ゴルフはプロ級の腕前を持つ同氏だが、短い距離のパットで感覚が狂ったという。ナイターを終えた後、暇があれば、ホテルの部屋でパットの練習をしていたそうだ。


ゴルフイベントに参加し、グリーン上で芝を読む権藤氏(1998年)
ゴルフイベントに参加し、グリーン上で芝を読む権藤氏(1998年)

 権藤氏とラウンドしたコーチ陣が言っていた。「権藤さんはドライバー、アイアン、アプローチ…すべてがプロ級でスイングも格好いい。ただ、パットだけがギクシャクする。わざとやっているのかと思うほどだ」。

 これが、私と「イップス」との出会いだった。それまでも言葉は知っていたが、身近に感じたことはなかった。ただ、当時の私にはまったく理解できなかった。「たまたまパッティングの調子が悪いだけだろう」という程度にしか考えていなかった。

 今年1月から連載を始め、イップスについて取材を重ねてきた。今なら、権藤氏の話を理解できるかもしれない。そう思って取材を申し込んだ。趣旨を説明すると、開口一番こう言われた。


 権藤氏 イップスは難しいテーマだぞ。きちんと解決できたらノーベル賞ものだからな。


 まず自身のイップスについて聞いた。「まあ、オレのゴルフは遊びだからな」と前置きしてから語り始めた。


 権藤氏 最初は「目」からきた。グリーン上で上りと下りを見間違えて、大きくオーバーした。これが残っていたんだろうな。パットの時に手が動かなくなって、震えも出るようになった。ユニホームを脱いで、のんびりするようになってから治ったけど、いまだに突如として出てくるな。


 野球で自身のイップス経験はない。ただ、指導者としては多くの選手を見てきたという。


 権藤氏 昔からいたな。投手でいえば、緩い球が投げられないんだよ。全力でしか投げられない。ピッチャーゴロを捕ってファーストに投げられない。敬遠が投げられない。小林もそうだっただろう。敬遠のサヨナラ暴投があった。


 1982年(昭57)4月3日の大洋-阪神(横浜)。阪神の先発小林繁投手は、2-0のまま9回裏のマウンドに上がった。完封目前からピンチを招き、田代富男内野手、ラム内野手の連打で同点に追い付かれた。なお1死一、三塁で阪神ベンチは満塁策で、高木嘉一(由一)外野手の敬遠を決めた。

 2ボールからの3球目。小林投手の投げた球は、暴投になってサヨナラ負けとなった。当時の日刊スポーツの記事には「外角遠く離れ、ワンバウンドでバックネットに当たり」と表現されている。さらにモニターテレビを見ていた営業部長の「ボールが画面から出ていったんですよ」というコメントを紹介しているので、かなり大きく外れた暴投だったようだ。

 さらに記事を読むと、イップスを勉強してきた私にとって非常に興味深い記述が出てきた。少しばかり長くなるが引用したい。

 「証言1 大洋関根監督 小林君はあのとき上から投げましたよ。緊張がかなりあったんじゃないかなあ」

 「証言2 大洋高木嘉外野手 スナップスローが出来ないんじゃないかなあ。投ゴロを一塁へ悪送球したの見たことあるもん。初球、ストライクみたいな球でびっくりした」

 サイドスローの小林投手が、上から投げたという証言がある。制球を定めるために意図的に投げたのかもしれないが、無意識だった可能性が高いのではないだろうか。


1982年4月3日、阪神の小林繁投手(左端)は大洋戦の9回に敬遠で暴投しサヨナラ負け
1982年4月3日、阪神の小林繁投手(左端)は大洋戦の9回に敬遠で暴投しサヨナラ負け

 イップス研究所の所長を務める河野昭典氏(59)を取材した際、意図と違う動きで投げてしまう症状を数多く見たと言っていた。「横から投げてみて」と指示しても、上から投げてしまう。脳の中の「意識」と「無意識」に差が生じてしまうという。

 小林投手は故人で、今となっては確認ができない。また、この日は雨が降っていたため、手が滑った可能性もある。また、同投手はこの年11勝をマークしており、暴投もこの1つしか記録していない。そうした事実も付け加えておきたい。


 権藤氏 コーチ時代もたくさん見てきた。いい投手なのにピッチャーゴロを捕ったら、もう投げられない。満塁でホームに投げるのに、キャッチャーへとんでもないボールを投げる。


 指導者としてイップスの投手に対したとき、どのようなアドバイスをするのか。


 権藤氏 あれこれ指導すると余計におかしくなるからな。もう理屈じゃない。球を速くするなら指導できるが、緩く投げさせるのは難しい。変に意識させず「好きなように投げなさい」と言うしかない。


 現役なので名を伏せるが、近年も一塁送球に悩む投手に助言をする機会があったという。


 権藤氏 ゴロを捕ったら一塁へ走っていけばいいじゃないかと。「オレはイップスだ」って堂々と言ってな。下からトスできる距離まで走っていけばいい。


 才能あふれるプロ野球選手が、なぜ、そのような状況に陥るのか。権藤氏は、少年時代からの指導の問題に触れた。


 権藤氏 投手は基本的に大きなモーションの指導を受けて育つ。両腕を大きく割って、大きなバックスイングという形から入る。それ自体はいい。ただ、投手でも野手でも、投げるのに一番大切なのはトップだろう。どんな投げ方だろうと、トップは腕が90度で耳の横にボールがくる。そこをおそろかにして、スピードを出すために、大きなモーションにこだわりすぎなんじゃないか。だから緩く投げる時に、どうやって投げたらいいか分からなくなる。投ゴロを一塁へ投げるのに、大きなバックスイングはいらんからな。


 そして付け加えた。


 権藤氏 プロのコーチでもそうだが、教えすぎはいかん。能力があるからプロに入ってくる。それなのに、ああだ、こうだと細かくフォームをいじるからおかしくなる。教えすぎはよくない。


2017年WBCでコーチを務めた権藤氏
2017年WBCでコーチを務めた権藤氏

 同氏には「教えない教え」(集英社文庫)という著書がある。一部を抜粋したい。


 『コーチングをしているとどうしても教えたくなってしまう。指導者や上の立場にいる人間というのは、教えた方が手っとり早く済むからどうしてもそうなってしまいがちだ。でも、真にその人物の成長を望むのであれば、コーチや教える立場の人間は Don't over teach を忘れてはならない。どんな相手であれ、真の成長を望むのであれば丁寧に助言し、我慢強く見守っていく姿勢を保つことが大事なのだ』


 ここまでプロ、アマを問わず、指導の現場からイップスを語ってもらった。それぞれに意見の細部は違うが、一致しているところもあった。

 指導者による一方的な指導が、選手を迷路に追い込んでしまう。つまりイップスを招いてしまう可能性がある。もちろん指導者側も選手の成長を願っている。しかし、受け手がどう捉えるか。そこを重視していく必要がある。それは断言してもいい。

 権藤氏が指導者として身上としてきた「Don’t over teach(教えすぎるな)」は、イップスを未然に防ぐ策として重要なキーワードであろう。


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 次回からプロ選手の立場からイップスやメンタルを語ってもらいたい。

 最初に登場してくれるのはソフトバンク武田翔太投手(25)だ。

 プロ1年目の2012年(平24)、シーズン中盤に登場して破竹の勢いで8勝を挙げる鮮烈デビューを果たした。

 だが、2年目の翌13年は右肩を痛めて4勝止まり。パ・リーグ最多の68四球を与えるなど、本来の投球を見失った。

 もともとメンタルトレーニングに興味を抱いていた武田投手は、考え方に工夫を重ねて乗り越えた。

 今や王者ソフトバンク、そして日本を代表する投手の1人といっていい。

 武田投手に、2年目のピンチを乗り越えられた要因を語ってもらった。(つづく)【飯島智則】