ソフトバンク2軍監督の小川一夫氏(64)は、イップスを克服して1軍に昇格したA投手に質問した。「どうやって治したのか」と。A投手は思い悩んでいるとき、インターネットでイップス研究所を見つけて所長の河野昭典氏(60)に指導を受けた。そう答えた。


 小川氏 私が「それで投げられるようになるのか?」と聞いたら、「なりました」と言う。それなら、ぜひ私も会いたいなと思いました。連絡先を聞いて、私から河野先生に電話しました。フレッシュオールスターにいらっしゃると言うので、選手を交えて一緒に食事をしました。


 河野氏は、初めてA投手から来た電話を今でも覚えていた。


 河野氏 「交通費も出すから福岡まで来てくれ」と言われて、行きました。無意識のメンタルトレーニングと、キャッチボールも一緒にやりました。初回である程度、投げられるようになりました。それから毎日電話で話しましたね。話し相手になりました。


 小川氏にも、こうしたやりとりを説明した。イップスに陥った選手を、いかに対処すべきか。無意識の領域をケアしなければ、なかなか技術指導だけで克服はできない。これまでの連載で書いてきた部分の説明をした。

 かねて日本の野球界にもメンタルドクターやメンタルトレーナーが必要だと考えていた小川氏にとって、非常に興味深い内容だったという。


 小川氏 河野先生の話を聞いて、新鮮で説得力を感じた。それでアドバイスをお願いするようになりました。


 チームの選手、コーチ陣の前で講演を依頼した。


 小川氏 非常に勉強になりましたよ。興味を持って聞いていた選手、コーチもいました。特に指導者はメンタルだけでなく、栄養学など、いろいろ興味を持つことは大切です。イップスだけではなく、メンタル的にどうやったら選手の能力を引き出してあげられるか。それは指導者にとって重要だと思います。


 指導者は、自身の経験から指導するパターンが多いのではないか。


 小川氏 もちろん、昔ながらの話、経験の中で得たものが正しい場合もある。でも、プロ野球で成功している人って、強い人が多い。体も、脳も、心臓もね。でも、弱い選手をどうやったら強くできるか。強くはできなくてもレベルを上げることはできるのではないか。それを勉強していけば指導者としての幅は広がっていきますよ。河野先生に聞いた脳の話なんて、なかなか素人には分からない部分ですからね。


 身体的な能力が高くても、力を発揮できないままに球界を去る選手も多い。その中にイップスも含まれる。


 小川氏 野球選手は時間がないんですよ。一般社会なら、40歳、50歳、60歳になって分かってもいい。経験を積んで成長して、その年齢で自分をコントロールできるようになればいい。それまでいろいろ経験しておけとね。でも、プロ野球の場合はそうはいかないでしょう。入団して2、3年で将来像が描けないと厳しい。次から次へと有望選手が入ってくるわけだから、経験から気付くまで待てませんよね。だから専門家の手を借りて、ものの考え方とか教えてやらないと。もちろん、それが我々の仕事でもあります。


 日本のスポーツ界でもメンタルトレーナーの重要性は理解されるようになっている。プロ球界にも個人的に契約する選手もいる。


 小川氏 個人的に契約している選手は、うちにもいますね。メジャーには1人で何人ものメンタルトレーナーをつけている選手もいるでしょう。監督にもいると聞きます。ミーティングに臨む前にメンタルトレーナーと面談して、選手への情報発信の仕方や表情、語調もアドバイスを受けるそうです。以前にキューバ代表の試合を見たら、ベンチ前の円陣でメンタルコーチが中心にいた。闘争心を高めるため、メンタルコーチがスピーチしていると。で、選手みんなで相手ベンチをにらみつけていた。


 話はイップスにとどまらず、メンタル強化に及んでいった。小川氏は、スカウトや編成部長としての経験も豊富だ。球団の強化、育成部門を長く支えてきた。その経験から、メンタルトレーナーの必要性を強く感じている。


 小川氏 「心技体」でいえば、技術面は守備コーチや打撃コーチが指導しますよね。体力面ではコンディショニングコーチやストレングスコーチが担当します。では心は? 同じようにメンタルコーチが導いていくという方法もあると思います。選手の話を聞いてやって、モチベーションを保ってあげたりとかね。


 スカウトとして有望選手を獲得しても、全員が一流に育つわけではない。技術不足で失敗する者もいれば、体力面で及ばない者もいる。同様にメンタル面で成功に及ばない選手もいる。


 小川氏 メンタルに問題を抱えた選手は多いですよ。たまに完璧な選手もいるけど、今は弱い子が多い。ちょっとしたことで落ち込んじゃう。「何くそ」っていう、いい意味の開き直りをできるようになれば、もっと能力を発揮できる。そうやっていかないと、そんなに人材豊富ではないんだから。


 河野氏も同調する。イップス克服や、メンタルトレーニングの充実を図れば、野球界からはさらに人材が出てくると。


 河野氏 脳の仕組み、心の仕組み、身体の仕組みなどを自分なりに理解し、かみ砕いていけば克服できます。技術向上にもいかせます。プロ野球界にも、イップス研究所の無意識のメンタルトレーニング、メンタルトレーニングを継続してイップスを克服した選手がいます。1軍に定着した選手、首位打者を争う選手、盗塁王を獲得した選手、チーム最多勝を挙げた選手もいます。


 そのためには球団としてもメンタルコーチを置き、選手の気持ちを前向きにしてやる必要がある。


 小川氏 メンタルコーチの人材がいないなら、球団で育てていく方法もありますよね。やっぱり野球経験者がいい。野球を知らない心理学者では、アプローチが難しい。だから現役を終えた選手で、心理学に興味を持つ者がいるなら、留学などで勉強させて育てていけばいい。球界も、これから変わっていかないといけないでしょうね。私もさらに勉強し、選手が能力を発揮できるような指導をしていきたいと思っています。


 近年スポーツ界でも、メンタルコーチ、トレーナーの存在感は格段に高まっている。選手に寄り添い、励まし、リラックスさせ、勇気付ける。かける言葉や方法はそれぞれだが、選手が存分に力を発揮できるように尽力する。

 プロ野球界がさらに発展していくためにも、メンタル面の充実は欠かせないだろう。フロント経験も豊富な小川氏だけに、広い視野からのイップス論になった。


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 さて、イップスをテーマに30回に渡って連載を続けてきた。

 イップスの理解や対処法、さらには指導の問題にも触れた。現役プロ野球選手を含め、さまざまな立場からイップスを語ってもらった。

 原因や症状もさまざまで万能な特効薬はない。だから「こうすればいい」「こうすべき」といった安易な表現は使わないよう注意を払った。ただ、ほんの少しでも参考になれば…ヒントになればという思いを込めて記事を書いてきた。

 掲載した以外にも、多くの方からイップスやメンタルに関する話を聞かせてもらった。

 そのうちの1人に谷口智哉さん(24)がいる。彼は慶応高校時代にイップスに陥り、長期間に渡って悩み続けた。外野手だった。3年夏はベンチ外で高校野球を終えた。慶大進学後も野球部に入り、努力を重ねたが、試合出場の機会は得られなかった。

 だが、悪戦苦闘をする中で光を見いだし、最後には思い通りのスローイングができるようになった。イップス研究所で指導を受けた時期もあった。イップス克服は、彼の大きな自信になったという。

 今年4月から大手損保会社への入社が内定していた。だが、卒業までの間と思ってイップス克服の指導を始めると、将来に迷いが生じた。


 谷口さん 人生をかけてやりたいことはこれだと思いました。高校、大学と試合に出場することはできませんでしたが、イップスを克服して納得して野球を終えられた。その方法や考え方を伝えていきたい。そう思って内定をお断りしました。会社には本当にご迷惑をかけてしまいました。両親にも大反対されましたが、今では応援してくれています。


 現在は「イップス研究家」と名乗り、YouTubeやSNSで情報を発信し、「LINE@」を使って個別相談も行っている。10月には株式会社インディッグ主催で指導者やトレーナー向けにイップスのセミナーを行う予定もあるという。

 彼のYouTubeは(https://www.youtube.com/channel/UCkgLn3fRFvT7m6JklBIneag)から見られるので、興味があればアクセスしてほしい。

 イップスを克服した自信が、彼の人生を変えた。まだスタートしたばかり、難解なイップスに挑む道は険しいが、健闘を期待している。

 また、私自身もイップスに対する興味は高まっていくばかりだ。7月1日に横浜市内で開催された日本イップス協会の講習会に申し込んで参加した。連載の第11回で書いたように2月の講習会を取材しているが、今回は取材ではなく勉強を主目的として出席した。

 講習会に3回出席すると受験資格を得られ、テストに合格すれば日本イップス協会の認定トレーナーになれる。さらに10回の受講でプロフェッショナル認定トレーナー、同じく20回でエキスパート認定トレーナー、30回でマスター認定トレーナーになる資格を得る。やるからにはマスターを目標に、まずは認定トレーナーを目指したい。

 トレーナーになったからといって、連載に登場してもらった専門家のようにイップス克服の指導ができるわけではない。プロフェッショナルなスキルを持たなければ、選手を正しく方向へ導くことはできない。

 ただ勉強を重ねて理解を深めていけば、イップスを正しく伝えられる。未然に防ぐコーチングをアドバイスできるかもしれない。それはスポーツを主に伝えるメディアとして、重要な役割だと考えている。

 今回の連載は主に野球のスローイングに焦点を絞って展開した。いつの日か、視点を変えて再びイップスの記事に挑戦したい。

 最後は、今回の連載中、常に胸中にあった思いを書いて締めくくりたい。


 悩み、苦しみながら練習しているスポーツ選手たち。イップスに負けるな! イップスは必ず克服できる!! (おわり)【飯島智則】