1球も投げずに、大船渡(岩手)・佐々木朗希投手(3年)の春が終わった。18日、春季岩手県大会1回戦の釜石戦に「4番右翼」で臨み、延長10回サヨナラ負け。「すごく悔しい」と話し、県北部にある野田村ライジングサンスタジアムを後にした。高校生史上最速163キロ右腕の高校野球も、残すは夏だけ。バスに揺られ、何を思い、大船渡への158キロを帰ったか。東日本大震災から2990日の三陸路を走り「令和の怪物」の轍(わだち)を追った。

気のせいか。大船渡の試合取材を重ねること20回近く、これほど佐々木に存在感がなかった試合はなかった。負けた瞬間も表情は真顔のまま。少し、疲れているような印象さえ受けた。

もう夏しかない。大船渡へ帰る3時間、彼は何を思い、バスに揺られるのか。同じ景色を見たくなり、国道45号を南へ走った。普代、田野畑、岩泉…北リアスは、高知・四万十などと並び東京からの所要時間が最も長いエリアの1つだ。

「あまり出歩かないんです」と教えてくれたことがある。プロ野球やメジャーの華やかな舞台から熱視線を浴びる17歳は、普段は三陸でのんびり暮らす。190センチの見栄えある体格ながら、佐々木には少し影を感じる。あれから間もなく3000日。東日本大震災の津波で、当時、小学3年生の佐々木は父を失った。故郷・陸前高田の町並みも。

大船渡へ移り住み、そのまま大船渡高校で野球を続けることを選んだ。ケガ防止に真剣に取り組む国保陽平監督(32)や周囲の大人たちに支えられ、仲間たちと伸びてきた。報道陣にはほとんど見せない笑顔も、ベンチの中ではよく見せる。仲間の活躍にはしゃぐことも多い。

「みんながおやじみたいな感じかな、大船渡の街は」。OBの今野一夫さん(52)はしみじみ話す。1984年(昭59)のセンバツ。初出場で4強に進出し「大船渡旋風」と呼ばれた世代の5番打者だ。エース金野(きんの)、打者の今野(こんの)菅野(かんの)の「キン・コン・カン」トリオが高校野球ファンの話題になった。

「それまでは、みんな好き勝手やってる感じがあったんです。でも、私たちの甲子園で町が1つになった。それは感じました。自分の子じゃなくても『違うものは違う』と言える。子どもたちを守る、育てる、そんな空気がどんどん作られていったように思います」

佐々木も「地元の期待にこたえられるように」と口にすることがある。昭和にキンコンカンと鳴り響いて生まれた一体感は、令和の港町に染み入り、息づいている。

野田村での話を回想しながら、運転すること3時間、大船渡に着いた。158キロのうち、海が見えたのは2キロ分あるかどうか。震災から8年2カ月、沿岸には防潮堤が多く建てられ、リアスの海を眺められる場所は案外少ない。佐々木はどんな景色を眺めながら、これまでとこれからを思案していたのだろう。

影を感じる、と書いた。気軽に近寄りがたい雰囲気をまとう…がより近いかもしれない。「自分も最初、静かな人かなと思ったんです」と打ち明けてくれたのは、U18日本代表1次候補合宿でのチームメート、横浜(神奈川)の及川雅貴投手(3年)だ。「それが、佐々木君から『一緒にキャッチボールやろう』って話しかけてくれたんですよ。イメージと全然違って、話し方もすごく優しくて」。

それが本質なのだろう。ぼーっと待っていたら「…取材、ありますよね?」と小声でわざわざ話しかけてくれたこともある。163キロを投げても、人を寄せつけないオーラを発していても、佐々木朗希はまだ少年を卒業したばかりの17歳なのだ。

「令和の怪物」と書くことを少し悩んでいた。「彼は怪物と書かれるのを嫌がっていませんか?」。佐々木に近い人に聞いてみた。会釈をしながら首を横に振った。投げないで終わった春は、佐々木朗希が令和の怪物たらしめる大きな布石。50日と少しで夏が始まる。【金子真仁】