日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

   ◇   ◇   ◇

プロ・アマの壁がまた少し下がった。琉球を熱狂の渦に包んだ男。10年に沖縄・興南高のエースとして甲子園で春夏連覇を遂げた元ソフトバンク投手の島袋洋奨が、12日から母校の投手コーチとして指導にあたっている。

19年シーズンを最後にソフトバンクから戦力外を通告された際、同学園理事長で名監督の我喜屋優が「興南の門もあけてある」とコメントしたのは、小うるさくしつけ、大海原に導いた指導者の親心だった。

20年4月に事務職員に採用されたが、国内外を問わずプロ野球に進んだものは高校・大学生を指導できない規定で、後輩を教えることはできなかった。学生野球資格回復研修を受けた結果、2月5日に資格回復を認められた。

「プロでは悔しいというか、もどかしさしかなかったですね。ホークスには、ぼくの状態が悪いことを知りつつ指名していただきましたから感謝しかありません。でも完全に投げる感覚がわからなくなっていたんです。それが不安でしかなく、なんであんなところに投げたんだろうと、それがまた恐怖心になっていった」

沖縄勢として初めて深紅の大優勝旗をつかんだ興南で、ひたむきに投げる小さなエースの姿は県民の胸を打った。中央大でも2年の開幕戦(対東洋大)で226球を1人で投げ抜くなどスポットライトを浴び続ける。

しかし、人生はいたずらだ。左肘に異常をきたし、大学3年に上がった頃から心と体の歯車がかみ合わなくなる。プロ入り後にメスを入れた左ヒジの傷は癒えても、不安は消えない。栄光と挫折。明と暗。そんなコントラストを一身に受けたのだった。

「高校のときは考えられなかったです。無意識のなかでやれたことを意識するようになっておかしくなったんでしょうね」

ついに1軍登板は2試合に終わった。これが逆に華やかなままだったら、今の姿はない。島袋は「実力的に競争に勝てなかったんです」と潔かった。我喜屋から「覚悟はあるのか」と問われたときから踏ん切りはついているからだろう。

「高校時代から『野球は9回だけど、人生のスコアボードはずっと続くんだから』という教えを受けてきました」

学園の経営者でもある我喜屋は「春夏連覇の島袋だからおいでというわけにはいかない」と言いながらも「満開の花には、枝も葉もある。過去をみて、今をみて、未来をみる力をもってる子だから」と温かかった。

入試広報室で働く島袋は現在、帰宅後、オンラインの通信教育で体育教師の資格取得にも取り組んでいる。興南に入った当時、薄暗いブルペンでみた左腕が島袋だった。時を経て帰郷したしまんちゅ(島人)が新しい夢を追いかける。(敬称略)