たった10人の3年生だけでセンバツベスト4の強豪に立ち向かった。平城(へいじょう、奈良)の野球部には1年生も、2年生もいない。22年3月31日で閉校が決まっている。エースで5番の寺山継介投手が言う。「自分たちは人一倍、声を出さないといけない。練習でも試合でも、周りのチームよりも」。5月上旬の奈良大会3回戦の天理戦は言葉どおりの心意気だった。

8点を追う5回。救援で登場した達孝太投手に挑んだ。寺山が内角速球を振り抜くとベンチが「ヨッシャ!」と沸いた。遊ゴロだった。代打の清水良和内野手が二ゴロでも「オオッ!」ともり立てる。藤森大暉内野手は剛速球に手が出なかった。3者凡退。だが、20人の天理に声で負けていなかった。0-10で5回コールド負けの後、吉岡健蔵監督(60)は振り返った。

「校歌を最後、1回でも多く歌おうと取り組んでいる。力の差は分かっていたけど、最後まであきらめずに行こうと。ここまでの投手を打たないと勝てない」

次の夏が最後になる。プロ注目の快腕が投じた12球の球筋は平城ナインの力に変わった。140キロ超の球威を寺山は「威力がすごかった。見たことがない」と言うが、目線が上がる。あれから1週間、マシン打撃の球速を約140キロに設定して打つようになった。「前は120、130キロでした」と寺山。前に進んだ。

同校は寺山らが中学3年だった18年時点で統廃合の計画が進んでいた。それでも進路に迷いはない。寺山は「元々、野球をやるつもりでした」と振り返った。わずか10人になると不便もあった。球拾いやグラウンド整備に時間がかかる。練習試合数は減り、投手の球を打つ機会も少ない。それでも誰も脱落しなかった。吉岡監督は「サボろうとか、休もうとかがない。この10人で最後を迎えようと。絆が強い」と感心する。寺山も「団結力でできることも結構ありました。人数が少ないからノックを受ける量も増えます」と胸を張る。甲子園出場こそないが、10人だけの輝きを発する。

勝利も敗北もないゲームだった。天理の中村良二監督(52)は「最後はウチも1番をつけたのを投げさせないと。ウチのエースは達です」と言う。閉校で、もう戦う機会はないかもしれない。快投する先発の森田雄斗投手から達に継投した。敵将は「僕の公式戦初めての黒星が平城さん。9月26日に」とよどみなく記憶をたどる。監督就任直後、15年秋の県大会準々決勝で初めて負けた。天理を破り、県3位で近畿大会に進んだのが平城だった。消えゆくライバルに敬意を表し、背番号1が仁王立ちした。

天理に敗れ、球場を出た平城ナインを多くの若者が待っていた。長髪の私服姿が並ぶ。吉岡監督が言う。「OBたちなんです。来てくれました」。夏、負けられない理由がまた増えた。