12年前の夏、投手歴わずか3カ月で王者を苦しめた身長168センチの正捕手兼急造リリーバーがいた。09年に関西学院(兵庫)を70年ぶりの夏甲子園に導いた山崎裕貴さん(30)。堂林翔太(現広島)を擁する中京大中京を相手に捕→投→捕→投とフル回転した球児は今夏、日本選手権で準決勝に進出したホンダの頭脳となっていた。【取材・構成=佐井陽介】

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社会人野球の日本選手権が開催された7月、山崎さんは多忙を極めていた。

21年からホンダ硬式野球部でコーチ兼アナライザーを肩書とする。パソコン3台を駆使して他チームを偵察。1球1球のデータ収集や情報入力、動画を使った配球、作戦の分析まで仕事は多岐にわたる。「やり出したらキリがなくて…」。そう照れ笑いする表情からは充実感が漂っていた。

「甲子園に出るまでは、社会人でも野球を続けるイメージは全くなかった。各カテゴリーで自分より実力が上の人と出会えたから、もっと自分も頑張ろうと思えたのかもしれません」

12年前の高校3年夏、身長168センチの正捕手兼リリーバーとして関西学院を70年ぶりの夏甲子園に導いた。1回戦の酒田南戦では滑川の久保田智之(元阪神)以来、11年ぶりの「先発捕手の勝利投手」を達成して注目を集めた。

2回戦では圧倒的不利の下馬評に抗い、堂林を擁して日本一まで上り詰める中京大中京に大善戦。1回1死から救援登板すると、捕→投→捕→投のフル回転で計7回を3失点。9回裏にサヨナラ被弾で力尽きたが、わずか3カ月という投手歴でも話題を呼んだ。

「今思うとバカだなと思うけど、中京大中京戦で初めてツーシームを投げて暴投になったり、打ってこないと思ったら120キロの緩い直球を真ん中に投げたり…。楽しんでいましたね」

実戦初登板は5月の練習試合。雑誌や本で慌ててスライダーやスプリットの握りを学び始めた3カ月後、古豪復活の象徴となるのだから人生は分からない。兵庫県大会前に「1回戦で負けるかも」と心配していた球児は堂林、明豊の今宮健太(現ソフトバンク)らと日米親善高校野球を戦うまでに。環境が激変した3カ月間は指導者となった今、貴重な財産となっている。

関学大4年秋には主将として大学初の明治神宮大会出場も経験。「ワンランク上の舞台で勝負したい」と選んだホンダでは2年目の15年に正捕手の座をつかみ、同年11月の日本選手権で準優勝も果たした。昨年12月の11年ぶり3度目となる都市対抗制覇を区切りに指導者へ転身。「最後の打席は4番の代打でバント。これもいい経験になりました」。29歳で幕を下ろした現役生活に悔いはない。

社会人になってからも、急造リリーバーに負けず劣らずの場数を踏んできた。

正捕手時代にはイップスを発症。投手への返球1つにも苦しんだ。「練習では何千球投げても大丈夫なのに、本番になると…。投手練習にも参加して一から投げ方を見直して、なんとか治すことができました」。

豪州ウインターリーグへの初代派遣メンバーの1人に選ばれ、同国代表投手やナックルボーラーとの対戦にも恵まれた。

「いろんな経験値は人よりあるかなと思います」

野球人生の第2章。引き出しの多さは大きな武器となりそうだ。【佐井陽介】

 

◆09年夏の関西学院フィーバー 70年ぶりの出場は夏史上最長ブランク。1回戦で酒田南に勝利。夏の甲子園勝利は関西学院中時代の39年1回戦で天津商(満州)を22-8で下して以来70年ぶり。夏の甲子園では東山、育英の57年ぶり勝利を上回り、センバツ最長の69年ぶり(98年関大一)も超える甲子園史上最長ブランク勝利となった。1回戦当日は午前3時にはチケット売り場に300人が並び、校名入りグッズの売れ行きも出場校トップだった。

 

◆山崎裕貴(やまさき・ひろき)1991年(平3)4月5日、兵庫県伊丹市生まれ。小2時に「桜台ハンターズ」で野球を始め、天王寺川中ではヤングリーグ「兵庫伊丹」の捕手兼左翼手で全国制覇。関西学院では10本塁打。関学大3年秋に関西学生野球リーグで39季ぶり優勝、4年秋は主将で明治神宮大会出場。14年からホンダで活躍。20年限りで現役引退。168センチ、72キロ。右投げ右打ち。