日刊スポーツは「素顔の元イチロー」と題し、引退発表したマリナーズ・イチロー外野手(45)の緊急連載を開始します。筆者はオリックス時代の担当で長く取材を続ける高原寿夫編集委員と、大リーグで取材を続ける四竃衛記者。取材などを通じて知ったイチローの人間性を伝えます。

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21日深夜に行われた引退会見でイチローはこれまでにないぐらい話し続けた。会見は新聞、テレビだけでなく週刊誌、ネットメディアとオープンな形で開催された。これもめずらしいことだ。そこでイチローはこんな話をした。

イチロー (最後の試合で)やっぱり1本ヒット打ちたかったですし。僕には感情がないと思っている人もいますけど意外にあるんですよ。

94年に210安打でいきなりスターダムにのし上がった。当時、振り子打法と呼ばれた打撃フォームはもちろん、ストリート系とされるファッションを着こなし、今までにない野球選手のスタイルだった。取材に対する受け答えも独特。野球を分かっていなかったり、気に入らない質問はまともに相手にしなかった。

最近は何の実績もない若手がそんな様子を見せることもあるが、イチローはすでに有名選手とも言うべき存在だった。それでも、そんな態度は一部に冷たい印象を与え「サイボーグ」などと評されることもあった。

だがプロ生活の節目で涙を流した。もっとも泣きじゃくったのは担当スカウトだった三輪田勝利さんが亡くなったときだ。98年11月、ドラフト指名した選手に入団拒否された三輪田氏は責任を取って自身で死を選んだ。球界にとっても衝撃だった事件はイチローにもショックを与えた。

三輪田氏をプロ入りの恩人として位置づけていたイチローは葬儀で棺に自分のバットをささげた。その後、鼻水の垂れることも気にせず、号泣を続けた。

感激の涙も流した。自身の引退会見でこんな話をした。

イチロー 仰木監督に出会ってレギュラーで使ってもらったんですけど。ここまでですね。楽しかったのは。いきなり番付を上げられて。力以上の評価をされるのは苦しいんです。

元々は人気球団ではなかったオリックスにあって突然、1人だけ、大スターになった微妙な環境もあった。当時は若かった。うまく処理する要領の良さもなく周囲から浮くような感じもあった。96年、巨人を倒し、オリックスが日本一になったときもそれはピークに達しつつあった。

そんなときに参加した同年オフの日米野球。純粋に野球を楽しむ大リーガーの姿に心を打たれた。「こんな野球があったのか。この時間が終わらないでほしい。そんな感じでした」。ここで初めてメジャーへの夢を膨らませたイチロー。日米野球が終わるときは目にうっすら涙を見せていた。【高原寿夫】