優勝争いの中、阪神に激震が走った。中村勝広ゼネラルマネジャー(GM)が23日、都内のチーム宿舎で急死した。66歳。死因は急性心不全で事件性はないという。

 中村GMの訃報に球界も深い悲しみに包まれた。同GMが正二塁手になった75年の監督で、指導者としても師弟関係にあった85年阪神日本一監督の吉田義男氏(82=日刊スポーツ客員評論家)は突然の悲報に落胆し、声を震わせた。現役時代やコーチ、監督として中村GMとともに汗を流してきた多くの関係者らも悲しみに暮れた。

 ただただ、ぼうぜんとしています。訃報の知らせを受けた瞬間は、ショックのあまり体が動かなかった。虫の知らせか、チームもこういう状態ですから、カツ(中村氏)に電話をしなくてはと思った直後でした。

 酒が好きで、歌が好きで、そして、野球が大好きだった。アルコールが入って顔を赤らめると、鳥羽一郎の「兄弟船」を声を張り上げて歌いました。

 よく気配りのできる男でした。シャイというか控えめなところもあった。でも酒が入ると、それはそれは豪快になって…。

 優勝と最下位を経験した「天地会」の酒席では、ほろ酔いになったカツの性格を見越した周囲が「監督のことを『おいっ、吉田!』と呼び捨てにしてみろ」とはやしたてられて盛り上がったものです。

 千葉の裕福な家庭で生まれたボンボン育ち。プロ入りする際に、担当スカウトの河西さんがあいさつにいったら、高級車のベンツで送迎してくれたといいますからな。

 でも早大から阪神入りで、いくらエリートとはいえプロの世界は甘くない。よぉ練習しました。スターではなかったが、いぶし銀の働きでした。

 私の監督1年目だった75年、中村が二塁手のレギュラーになったばかり。後楽園での巨人戦で2つエラーをしでかした。マウンドに向かうと、中村がベンチに下がろうとした。

 とっさに代えられると思ったんでしょうな。私はカツに「なに帰ろうとしとんねん。もう1回エラーしてこい!」と叱り飛ばしたんです。

 それは私が新人だった当時、松木謙治郎監督から受けたのと同じ教えでした。それ以来、師弟というか、信頼関係で結ばれたように思います。守備はうまくはなかったが、勝負強い1番打者でした。

 カツが監督だった92年は、あと1歩で優勝を逃した。フランスで代表チームの監督だった私は、パリから毎日のように電話で激励したのを覚えています。

 ユニホームを脱いでからも気心の知れた仲。今年の開幕前に芦屋市内の日本料理屋で「今年は是が非でも優勝を」と誓い合ったのに…。ほんと彼との思い出は尽きないです。

 そういえば石原裕次郎の「勇者たち」もカラオケの十八番でしたな。これからさらにGMとして手腕を発揮し“荒波”を乗り越え、勇者たちを育て、常勝チームを築いてくれると信じていたのに…。もうなんといっていいか…、無念でなりません。