プレーバック日刊スポーツ! 過去の11月8日付紙面を振り返ります。2010年の1面(東京版)はロッテの日本シリーズ優勝でした。

 ◇ ◇ ◇

<日本シリーズ:中日7-8ロッテ>◇第7戦◇2010年11月7日◇ナゴヤドーム

 ロッテが中日との2試合連続の延長戦を制して日本一に輝いた。7-7の延長12回、岡田幸文外野手(26)の適時三塁打で勝ち越し、対戦成績を4勝2敗1分けとして5年ぶり4度目のシリーズ制覇を達成した。西村徳文監督(50)は史上9人目となる就任1年目での日本一。レギュラーシーズンは3位に終わったが、クライマックスシリーズ(CS)と日本シリーズで計10勝4敗1分け。言い続けてきた「和」が結実し、リーグ3位から史上初の快挙を成し遂げた。

 ロッテ西村監督が3度、宙に舞った。CSファイナルステージ突破を決めた時に続く2度目の胴上げは格別だ。「よくここまでたどりついたというところです。昨日に続いて長かったけど、選手を信じてました。みんなの力です」。緊張から解き放たれた表情は、いつも以上に穏やかだった。

 下克上が完結した。レギュラーシーズン3位からの日本一は史上初。ロッテの新人監督としては50年の湯浅禎夫以来60年ぶりの快挙だ。がけっぷちに何度も立たされたがチームワークを結集して乗り越えた。どんな苦境でも「いつも一緒。全員で力を合わせてやるだけです」。口癖のように繰り返した言葉が、西村野球そのものだった。

 運命的な下克上だ。相手は落合中日。82年に鹿児島鉄道管理局からオリオンズに入団した時の主力が落合監督だった。独特な練習方法と独特な野球観を持つ先輩はあこがれの存在だった。バレンタイン監督の下、ヘッドコーチを6年間務めたが、監督としては1年生。監督という孤独な立場で自身の選択が正解か、戸惑う局面もあった。そんな時、近い関係者に「落合さんに電話して聞いてみようかな」と、漏らしたことがある。落合監督の目指す緻密(ちみつ)な野球に答えがそこにあると考えるのも自然なことだった。ただ「今は、お互いに監督だから」と、結局は電話しなかったという。敬愛する先輩を倒しての日本一に、優勝会見でも「挑戦するだけでした。偉大な方でしたから」と多くは語らなかった。

 頂点まで上り詰めた原動力が「和」だった。宮崎の福島高から鹿児島鉄道管理局を経てプロ入り。無名の選手からプロ野球の監督で日本一を勝ち取った。日本シリーズ前の宮崎合宿。雨天に泣かされ、グラウンドを求め故郷の宮崎・串間に行った。2年の夏に甲子園にも出たが、1年の時には「野球をやめようと思ったことがあって、1週間ぐらい練習にいかなかった」こともあった。すると「家の前で部員のみんなが待っていて、親にも説得されて、戻ったときには下手なことはできないと思って。バイクが好きだったけど、僕を野球に戻してくれたのは仲間だった」。日本シリーズ直前に原点の地に帰ったのは偶然とは思えない。

 CS以降15試合。消耗戦だった。5日、名古屋行きの新幹線を待つ新横浜。待合室のイスに座ると「疲れるな」とポツリ。「決断の連続。気を使うよ」と激闘による疲労を明かした。新幹線に乗ると、5分とたたずに寝息を立てた。遠征ごとに新幹線の隣に座る梶原広報は「監督が寝るのは初めてです」と話した。最後まであきらめずに全員でつなぐ野球を貫き、4点差をはねのけた。「勝つことだけを考えてました」と、一寸のスキも許されない159試合が終わった。今はただ、大好きな芋焼酎に酔いしれたい。

 ◆西村徳文(にしむら・のりふみ)1960年(昭35)1月9日、宮崎県串間市生まれ。宮崎・福島高-鹿児島鉄道管理局。81年ドラフト5位でロッテ入団。86~89年盗塁王、90年首位打者。ベストナインとゴールデングラブ賞を85年に二塁手で、90年に外野手で受賞した。97年に引退するまで1軍通算16年、1433試合で打率2割7分2厘、33本塁打、326打点、363盗塁。98年以降はロッテのコーチを務め、バレンタイン監督2度目の就任となった04年以降は昨年までヘッド兼外野守備走塁コーチを務めた。ロッテ一筋29年目。177センチ、78キロ、右投げ両打ち。

 ▼ロッテが05年以来、4度目の日本シリーズ制覇。ロッテは公式戦3位からCSを勝ち上がって日本一。リーグ優勝チーム以外の日本シリーズ制覇は07年中日(公式戦2位)に次ぎ2度目で、3位からは初。ロッテの公式戦勝率は5割2分8厘。75年阪急の5割2分、73年巨人の5割2分4厘に次いで3番目に公式戦勝率の低いチームの日本一となった。第7戦は2-6から逆転。シリーズで4点差以上の逆転勝ちは01年第2戦近鉄以来8度目(最大差は76年第6戦巨人の7点差)で、ロッテは74年第2戦(1-5→8-5)に次いで2度目。優勝を決めた試合が延長戦は92年西武以来だが、4点差逆転勝ちは初。

※記録や表記は当時のもの