名護から日本一軍団の日本ハムがやって来た。首脳陣や選手のなかに、GMを務める吉村浩の顔がある。長く虎番をやっていると、つい、阪神絡みの話題がないか探してしまう。いわゆる「職業病」ってやつだ。吉村に聞きたいことがあった。糸井嘉男の野球人生を変えた1年についてだ。

 04年 18試合4勝5敗1セーブ 防御率4・42

 05年 18試合4勝4敗2セーブ 防御率5・46

 06年 1試合0勝1敗 防御率9・00

 日本ハム糸井のイースタン・リーグ登板成績だ。最速150キロを超えたが、制球難で伸び悩み、1軍と無縁だった。球団の決断が遅ければ、いまの姿はなかったかもしれない。当時、GM補佐だった吉村は「糸井が一番スイッチが入った時がありました」と明かす。

 06年4月、GMだった高田繁が糸井を呼んで、野手転向の球団方針を伝え、現状を説明した。そのニュアンスは「このままいけば戦力外」というものだった。近大から自由枠で入団し、3年目を迎えたばかりだ。

 吉村も「本人は、まだ投手をできると思っていたみたいです」と補足する。球団はプレーヤーとしての適性を的確にとらえていた。「自分からボールを動かすのができなかった。来た球を打ったり、捕ったりするのはすごい」と振り返る。投手だが、身体能力の高さが際立った。なにげないしぐさも判断材料だ。ブルペンで手のひらにテーピングを巻いていたという。打つための準備だった。

 独特の言動から「宇宙人」の異名を取るが、実像は違う。あるスコアラーは「昔はミーティングで3球、フォークを投げていれば大丈夫、という感じだった。打てなかったところから、あそこまで来たわけだからね」と感心していた。野手転向後の2年間、1軍でまともにプレーできないところから、はい上がった。

 野手転向当初、コーチが糸井に伝えたことがある。「人よりも遅れているんだぞ。他の野手は高校の時から1日2、3時間も打つ。それが積み重なって、もう何万球の差になっているからな」。千葉・鎌ケ谷の寮では夜中も打ち込んだ。「何万球の差」を埋めていく、地道な歩みだ。野手転向12年目。この日もランチ特打でライナー性の打球を連発。鋭く、力強く、洗練されたスイングは野球を奪われまいと奮闘した軌跡だった。(敬称略)