1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。

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近鉄に奇跡的な優勝争いをもたらした男がいた。途中入団したラルフ・ブライアント(57)だ。

◆第2試合 同点に追いつかれた直後の8回表に勝ち越し本塁打。6月の途中入団以来、出場74試合目で34本目のアーチだった。

最強助っ人の一撃で川崎球場に再び熱狂が訪れた。通訳を務めていた藤田義隆(61)も興奮を全身で感じていた。

藤田 あの日は選手もスタッフもみな勝利することだけに集中していました。個々の選手が打ったどうこうではなかった。

結果は逆転優勝までほんのわずか届かなかった。涙を流す選手の中にはベンジャミン・オグリビーもいた。メジャー本塁打王の実績もある打者だった。

藤田 試合後、オグリビーも私も泣いていました。ブライアントはその姿を見て「なぜ涙を流すのかわからない」と言ってました。本当はわかっていたと思いますけどね。

伝説の試合を振り返りながら藤田は「あのような舞台は彼がいなかったらできなかったのかもしれませんね」と続けた。ブライアントのことだ。

この年の6月7日、衝撃的なニュースが近鉄を直撃した。主砲デービスの大麻法違反。逮捕、拘留の後、起訴猶予で国外退去となった主砲の穴埋めとして浮上したのが中日2軍にいたブライアントだった。

藤田 西宮球場での2軍戦を視察する仰木監督と中西コーチ、権藤コーチになぜか私も同行したことを覚えています。そのときはみなさん、これならなんとかいけるかな、というような雰囲気だったように思います。

バットに当たればホームランだが、めったにバットには当たらない、がブライアントに対する評価。多くを期待しての獲得ではなかっただろう。だが、この緊急トレードは窮地のチームを救い、翌89年は49本塁打でリーグ優勝の立役者となるのだからわからない。もっとも、この魅惑の大砲開花には明確な理由がある。仰木マジックだ。

藤田 仰木監督に何度も何度も伝えるように言われました。三振しても構わないと。彼がバットに当たらず、悩みだすたびにそう伝えるよう言われました。

選手の長所を生かし、個性を尊重する。後に野茂やイチローを世界に羽ばたかせた仰木マジック最初の成功例がこのブライアントだった。

藤田 仰木監督には外国人が打たないと八つ当たりのように叱られたこともありました(笑い)。怖い方でした。ただ、それ以上にやさしい方でした。私が道を踏み外さないでここまでこれたのも仰木さんのおかげだと思っています。

藤田もまた仰木マジックに魅了された1人。あれから30年。通訳生活は「想像もしていなかった36年目のシーズン」を終え、37年目へ向かう。(敬称略)