球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが15日、都内の野球殿堂博物館で発表され、エキスパート部門で元横浜(現DeNA)監督の権藤博氏(80=野球評論家)が選出された。分業制を確立させ、98年に監督就任1年目で横浜を38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。プレーヤー部門では中日一筋で2000安打を達成した立浪和義氏(49)が選出。また特別表彰ではプロアマ問題で改善に努めた日本高野連元会長の脇村春夫氏(87)が選ばれた。

積年の思いを成就させた権藤氏は「一世一代の晴れ姿ですね。いつかは入ると思っていましたが、いざ入ると、すごい方ばかり。今日だけは、自分で自分をほめてあげたい」とうれしそうだった。

エキスパート表彰候補になって、11回目での殿堂入り。背番号20の新人は61年35勝、投球回数の429・1イニングは、セ・リーグ記録。62年も30勝の最多勝。『権藤、権藤、雨、権藤…』と流行語になるほどの大車輪だった。

だが、右肘痛などの故障にもがき、8シーズンの短い現役生活。今では「先発」「リリーフ」の分業制が主流だが、当時の酷使、登板過多に追い込まれたのは悲運だった。

「(出身の)佐賀県から一旗揚げてやろうと思ってでてきたが、ダメになった。稲尾和久さん(西鉄)、杉浦忠さん(南海)とは馬力もスケールも違う。でも、つぶれると思わなかったが、投げてつぶれるなら本望だった」

権藤氏は指導者として花を咲かせる。その原点は、中日2軍コーチだった75年、米フロリダ州ブラデントンでのマイナーリーグ視察。「下手な選手ほど丁寧に教える姿にハッとして感銘を覚えた」。

中日、近鉄、ダイエーのコーチで投手を育てる。98年は横浜で監督として「マシンガン打線」を率い、抑え役の大魔神佐々木を中心に、リーグ優勝、日本一を遂げる。自らが投手として短命だった体験から、ストッパーの重要性を説きながら「分業制」を確立した。

投げ込み不要論者と思われがちだが「投げすぎはダメだが、投げることが必要なときは投げないといけない」。最後に「監督、コーチは、まず選手を見る、いや見極める。そして、どいつに賭けるか。それが当たるか、外れるかだ」と、権藤節で締めくくった。【寺尾博和】

○…権藤氏の次女嘉江子(かえこ)さん(殿堂入りセレモニーを見守り)「うちの母と生きてるうちに決まって良かったねと喜んでいます。職人かたぎで、地味なタイプですが、野球の神様が導いてくださったのだと思います」