入社30年目の井上真記者(54)がキャンプ地を巡る「放浪記」第3回。煮詰まった脳内から、四半世紀前の戦慄(せんりつ)がよみがえる。

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放浪をしてはみたものの、放浪記を書いてみると、己への自信のなさが浮き彫りになった。リラックスして書きたいことを載せたのに、深層心理では人に褒められたい名誉欲がある自分にびっくりした。

「メディアにはいい話、教訓めいたものであふれています。だから、こうしたいかに“中身のないもの”で、おじさん世代に読んでもらえるかじゃないですか」って、後輩記者に言われた。なるほどねぇ~。ん? ちょっと待てよ、確かに「ナ・カ・ミ・ノ・ナ・イ」と言っていた。まあ、いいか、そこは流そう。「プレー・オン」(サッカーでプレー継続の意味)だ。

やっぱり「いい原稿ですね」って言われたい。それが記者の本能。それを踏まえた上で「ナ・カ・ミ・ノ・ナ・イ」ものをどこまで徹してやれるか。徹するって言葉選びからして、理屈っぽさのにおいがしてくる。どこまでも、思ったままを、整合性を考えずに、流れるように書くか。

教訓めいたものや、心温まるエピソードを通して、選手や指導者との信頼関係を行間ににじませ、どこかで帳尻合わせをしようとする。修行が足りないんだ。どこまでも、どこまでもバカになって人生を放浪できるか。薄っぺらいプライドと虚栄心を脱ぎ捨て、心の中をさらけ出せ。

25年前の1994年(平6)2月19日、ヤクルト野村克也監督と評論家の王貞治さんが、ずらっとマスコミに囲まれた中で、豪快な言い合いをした。宮崎・西都キャンプ。生で観戦して、理屈抜きで興奮したし、面白かった。親しみを込めて野村さんと書かせてもらうが、野村さんは「今の時代、プロ野球選手は芸能人。何でもさらけ出さないとだめなんだ」と、盟主巨人の王さんを挑発した。王さんは「野球の本質を忘れないでほしいんです。チャラチャラとはき違えてませんか」と応戦した。

野村さんが球界の行く末を心配し、日ごろから考えていたことを、あえて王さんにぶつけマスコミを通じての問題提起だった。公開討論が終わると、王さんは記者室で「いいんだよ、ノムさんの手に乗ってあげたんだ」と心を静めるように言った。でも、放浪記者は見た。眼球から周囲を焼き尽くす光線が出ていた。「ああ、王さん本気だったんだ」。真剣に胸の内をさらけ出した2人を、若い記者のくせして「あっぱれ」と褒めていた。

放浪記者は、仕事の基本はののしり合いだと思っている。ののしるというのは誇張した表現であって、身内で褒め合うような関係の対極にいたい、という意味合いだ。社内で、身内で、褒め合ってどうする! 根底には野村VS王の舌戦があったからかもしれない。

間断なく、ティー打撃とフリー打撃の打球音が聞こえてくる。打撃フォームを観察する集中力はもうない。そもそもない。ぼぉーっと、沖縄の春の日差しを浴びながら、浮かんでは消えていくでたらめな考え事を、そのままやり過ごしていた。

プロレス記者となって、サーベルをくわえたタイガージェットシンに追いかけられ、人生で唯一「ヒエ~ッ」という叫び声を上げた。プロ野球では日ハムの大沢親分に出入り禁止を食らい、大相撲でも当時の九重親方(元横綱千代の富士)に謎の部屋出禁を畳敷きの審判室で通達された。抗議したら、親方は敷いてあった布団に入って寝てしまった。サッカーでも岡田武史監督を怒らせた。

そんなことしか思い出せないが、放浪をはじめた2月初旬から頻繁に心に浮かんでくるのは、千葉県野田市の小4女児が死亡したこと。いつの間に日本はそんな国になってしまったんだろう。

東日本大震災の後に、女子W杯で澤が土壇場で同点ゴールを決め世界一に輝いた時、本気で日本は立ち直れると思った。そんな考え方は、シビアな事件が休む間もなく起こり続く現実を認識した時、いかに甘っちょろいかと自問自答した。

それでも、悲惨な事件、事故があっても、スポーツのニュースや勝負を分けた人間模様を伝えることで、私たちの生活の一助になれればと思い、そういう思いはかけらでも常に頭の中にあった。

せめて、実力で勝負していくスポーツ界だけはどこまでもトレーニングと工夫が大切で、やり直しがきく世界であってほしい。「能天気なスポーツ記者」「だからマスゴミはくずだ」などの、声が聞こえてきそうである。炎上しようが、批判が殺到しようが、放浪記者がそう感じたものは紛れもないので、何のちゅうちょもなく、ここに書き切りたい。

思いのたけは全部さらけ出した。さてと、最後は空っぽ放浪記者の大好きな言葉で終わりたい。

後は野となれ山となれ。