球史に残る激動のドラフトを2件も担当した名スカウトがいる。堀井和人(71=オリックス元スカウト部長)は89年上宮・元木大介(巨人ヘッドコーチ)、95年PL学園・福留孝介(阪神)の指名にかかわり、両選手ともに獲得ならなかった。しかしダイエー時代の元木ドラフトの経験を近鉄移籍後の福留につなげ、混迷の獲得劇に幕を引いた。そこには、自身を救ってくれた近鉄への恩返しがあった。【取材・構成=堀まどか】

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闇夜が白く見えるほどのフラッシュを浴びながら、堀井は悔し涙をこらえた。89年12月13日。2時間半の入団交渉は決裂に終わり、元木家から姿を見せた。「どうしても巨人をあきらめきれないということでした」。その声は震えていた。

その17日前。89年ドラフトでダイエーは新日鉄堺・野茂英雄投手を1位指名したが、クジを外した。外れ1位に選んだのは元木だった。ドラフト前に「巨人愛」を公表しており、相思相愛と思われたが、巨人は慶大・大森剛を単独指名。元木は涙を浮かべ、うつむいてしまった。

堀井 大介はジュニアホークス出身。難しいのは難しいが、うちは絶対にダメというまでの感触はなかった。ただうちが「元木」って言った瞬間に、伊藤菊さんがすごいしかめっ面をした。(他球団には)絶対に取られないと思っていたんだと思う。

指名の翌日、堀井はチーフスカウトの伊藤四郎と上宮へあいさつに出向いた。その前に巨人スカウトが同校を訪れ、指名できなかったことをわびていた。思わぬ来訪者に2人は困惑した。「どういうことや!?」。巨人スカウト部長、伊藤菊雄の表情がよみがえる。そこからは沼の中をもがく毎日だった。

堀井 本人との「行きたくない」「来てくれ」のやりとりじゃなくて、いろんな人が関わっていた。本人には、行きたい気持ちはあったと思う。

堀井は元木を信じていた。だが甲子園のスターの巨人入りを促す人間の介入で、元木の真意は見えなくなった。12月13日の交渉後、入団を拒否。それでも堀井は翻意に向け、走り回った。翌年夏、倒れた。

堀井 頭からバーッとうみが出てきて、そこから全身に。入院先で驚かれたほどのストレスでした。

それでも体調が戻った後は、90年秋のドラフト1位候補を日本生命・木村恵二に絞り、奔走した。「ダイエーに何か返さなければ」と必死だった。1年の浪人を経て巨人入りした元木の代わりに、ダイエーも即戦力の木村を獲得した。それが堀井のダイエー最後の仕事になった。同年12月25日、契約を更新しないことを告げられた。その夜、近鉄チーフスカウトの河西俊雄から電話があった。

堀井 「1日待っとけよ」と。そしたら「27日の朝に難波の球団事務所に来てくれ」と。行ったら、その日のうちに近鉄が契約してくれたんです。

ダイエー球団取締役の杉浦忠の尽力があった。失業期間は1日で終わった。

堀井 空きができたから来い、ではなくて中1日で契約してくれた。近鉄に恩返ししなあかんと思った。元木のドラフトでぼくは勉強させられた。いろんな「におい」を感じるようになった。

運命のドラフトが再び、95年に巡ってきた。PL学園・福留は中日、巨人以外なら日本生命に入ると言われていた。情報不足に苦しんだ元木ドラフトの教訓から堀井はPL学園、日本生命の関係者を回り、正確な情報をつかんだ。近鉄には不利な調査結果をフロントに告げた。

堀井 それでも会社は福留で行くと決めた。地元やのに降りるわけにはいかんと。河西さんは「堀井、腹くくれよ」と言われた。

7球団競合の末、監督の佐々木恭介が福留を引き当てた。その後は、堀井が調べた通りだった。ドラフト後、福留は初めて意中の2球団を公表し、日本生命入りを明らかにした。近鉄の懸命の働きかけにも、揺るがなかった。だが河西も粘りに粘った。福留の地元鹿児島での第2回交渉。交渉を打ち切りたい福留側に条件を提示し、次回の約束も取り付けた。帰りのタクシーに乗ろうとして河西はふらついた。

堀井 ぼくは「三味線うまいですな」と言うたんよ。そうしたら「違う、ほんまにあかんのや」と。

大動脈瘤(りゅう)が75歳の腹に巣くっていた。命がけで河西は鹿児島に来た。負け戦と知りながら戦場に赴いた古武士を、堀井は全力で支えた。どこまでも河西に付き従った。それが近鉄への恩返しだった。

ドラフトは思いがけない形で決着する。第3回交渉で球団社長の筑間啓亘が「入団すれば3年後、意中の球団にトレードしてもいい」と発言。協約違反の失態で交渉は打ち切られた。矢面に立たされながら、筑間は誰も責めなかった。

堀井 自分の不勉強だと1人で受け止められた。会社も、ようやってくれた。これだけやってあかんかったら仕方ないと。近鉄は最高の会社やったよ。

河西は翌年2月に手術を受け、97年12月末に勇退。福留獲得はならなかったが、堀井の働きは名物スカウトを救った。そして元木、福留との縁は続いた。

堀井 ドラフトの2年後、球場で元木君のご両親にあいさつされて「いいチームでやらせてもらっていますよ」と返事しました。近鉄に入れたからね。福留君も顔合わせたら、あいさつに来てくれた。本当にほしい選手やったけど、彼らを恨んだことなんかないよ。

近鉄中村紀洋やオリックスT-岡田らスター発掘を手がけた。一方で、力を発揮できずに去った選手を堀井は忘れない。つぼみで終わった花を惜しむ。そんなスカウト人生だった。(敬称略)

 

◆堀井和人(ほりい・かずひと)1948年(昭23)3月15日、大阪府生まれ。明星高から法大を経て69年ドラフト7位で南海(現ソフトバンク)入団。70年10月18日西鉄戦(大阪)で代走として1軍初出場。父数男氏も南海外野手で、73年にプロ野球史上初の親子で日本シリーズ(対巨人)出場の記録を作る。80年で引退し、南海、ダイエー、近鉄でスカウト。オリックスとの球団合併でオリックス・スカウト部長となり、09年で退任した。

 

○…堀井さんが店長を務める大阪・ミナミのスナック「堀井」は来年、節目の開店10年目を迎える。オリックス退団後、心斎橋2丁目の日宝畳屋町プラスワンビル4階の店舗で開業。9人がけカウンターのむこうに立ち、常連客との野球談議に花を咲かせてきた。

南海、近鉄などの懐かしいユニホームや写真が飾られた店内は、常連客の笑い声に満ちていた。長身を折り曲げて酒を作り、つまみを小皿に取り分け、店長は1人で何役もこなした。開店当初は「いつまで続くかな」と苦笑いしていたが、野球を通じた知人を中心に店内はいつも満員御礼。出会いを大事にしてきた堀井さんらしい客筋だった。体調を崩して一時的に店を閉めた11月末。休業前日には、母校・明星高の同級生らがカウンターに陣取った。節目の10年目。ミナミの夜空のもと、野球談議がまた始まる。