第3回の「開幕と私」は近鉄、日本ハム、楽天で指揮をとった梨田昌孝氏(66)です。近鉄監督1年目の開幕となった2000年4月1日オリックス戦(神戸)で、指揮官として1度も作戦面のサインを出すことができず完敗。2度のリーグ優勝を遂げた監督としての原点になった1敗を振り返った。【取材・構成=寺尾博和編集委員】

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百戦錬磨の梨田が、もっとも記憶に残る「開幕」にあげたのは、意外にも「負け試合」だった。近鉄を率いた初年度の00年4月1日、オリックスとの開幕戦に0対4で敗れた。

梨田 屈辱というより情けない1敗でした。長い野球人生で1試合1度もサインを出さなかったのは、あれが唯一のことです。

近鉄で幹部候補生だった梨田は2軍監督として4シーズンにわたって若手を指導した。99年オフ佐々木恭介に代わって1軍監督に昇格。開幕戦の敵将はプロ入り当時のコーチ、現役引退する88年は、選手として仕えた仰木彬が監督だった。

梨田 尊敬する西本さん(元阪急、近鉄監督の西本幸雄氏)が認めた仰木さんは自分にとっての師匠でした。試合前は「お手柔らかにな」といわれたが、結果は手も足もでない完敗だった。開幕といっても身震いはしても緊張するタイプじゃない。でも例えば采配ミスで負ければ反省もするが、1度もサインが出せない試合なんてあり得なかった。うちのヒットは4本だったが、サインを出す機会がないほどチャンスを作れなかったということです。

仰木野球も「仰木マジック」と称されたが、梨田も「策士」のタイプだ。ただこの試合の初安打は2回2死から礒部が二塁打を放つも、続く川口が三振に倒れた。パ・リーグ史上初の新外国人開幕投手に指名した新外国人ウォルコットが5回2失点降板で後手に回った。最後まで“コマ”を動かせないまま敗れた。

梨田 あれやこれやと自問自答した1シーズンでした。わたしは「機動力野球」を掲げたが、その年最下位に終わって方針を変更した。絵に描いた餅だったことに気付いた。自分の理想像を追い求めてはいけないと反省したのです。それが翌年の「いてまえ打線」を擁しての優勝だった。つまり選手の長所を生かし、見極め、戦力を把握した上で戦いに臨む。あの1敗が監督としての“原点”になったということです。

梨田は2年目の01年9月26日オリックス戦(大阪ドーム)でリーグ優勝を決めた。相手ベンチで指揮をとったのは仰木だった。

梨田 試合前に仰木さんに「ナシ、おめでとう。おれも悪運が強いけど、お前もおれと一緒で悪運が強いな」と笑いながら声を掛けられた。仰木さんなりの褒め言葉でしょう。師匠に恩返しができた、そう思っています。(敬称略)