各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回は楽天ドラフト6位ルーキーの滝中瞭太投手(25)に聞いた。幼少期はエリートではなく、いわゆる「普通」の野球少年。身体能力がずばぬけていなくとも、誰だってプロ野球選手になれる可能性はある。オープン戦で4試合に登板し無失点とアピールした成り上がり右腕の少年時代に迫った。(※この取材は3月に行いました)

夢は消防士だった。小学校の卒業文集。滝中少年は「将来の夢」の欄に「プロ野球選手」と書いたが「中学校の卒業文集では書いてないと思います。まさかプロ野球選手になれるとは思ってなかったので。ぼんやりですが、地元で消防士になろうかなって思ってました」。楽天のユニホームに袖を通した25歳は、笑顔で幼少期を振り返った。

1994年12月20日、琵琶湖の西部、滋賀県高島郡(現高島市)で、父茂樹さん、母明美さんの間に生まれた。幼稚園時代から4歳上の兄駿介さん、2歳上の姉美緒さんが所属する野球チーム「新旭スポーツ少年団」でお茶当番に出向く母に連れられ、白球とたわむれていた。「兄、姉の同級生からかわいがってもらいました。試合中に騒いで『うるさい!』と母によく叱られてました(笑い)」。入団基準となる小学3年時にチームへ加入した。

運動神経には少し自信があった。小学校低学年まで運動会の50メートル競走ではいつも1位。リレーはもちろんアンカーだった。だが、野球チームに入り、周囲との差を目の当たりにした。「エースの子がすごくて『絶対勝てない』『こういう人がプロ野球選手になるんだな』と思いました。まさに挫折、ですね」。1学年14人のチームで主に三塁や一塁を守った。「ぎりぎり試合に出られるレベル。とにかく守備で下手でしたね」。小学4年からはリレーの選手にも選ばれなくなった。「運動神経がいいと思ってたんですが…。全然でしたね(笑い)」。

小学生ながら将来の夢に向かって、壁に当たった。ただ、根っからの負けず嫌いだったのかもしれない。寝坊や練習に行きたくないというそぶりを見せれば母から「やめてもええで」と何度も言われた。「『当たり強いな』と思いながら『このままやめるのは嫌だな』とは思ってました」。授業を終えて帰宅するとすぐにランドセルを置き、JR湖西線の高架下へ走った。日が暮れるまで友だちとともに壁にボールを当て合って遊んだ。

野球は楽しかった。小学5年の時、学年別チームで5年生の監督を務めた岡田義弘コーチ(62)の存在が大きい。「僕たちと同じ目線でとにかくはしゃいでくれるんです」。試合中、打順が回り打席でベンチを見ると、岡田コーチがコマネチをしていた。「ホームランのサインがコマネチなんです。『簡単に打てるか!』って笑いがこらえられなかったです(笑い)」。自身は球を受けてもらったことはないが、ブルペンからは「ナイスボール!」といつも岡田コーチの大声が響いていた記憶が残る。「僕のことを本当に信頼してくれました。下手くそだと分かっていても愛情を持って接してくれました」と感謝は尽きない。

同学年のエースとともに湖西中の野球部に入部。三塁手兼投手で、紅白戦では3番手投手だった。「最速は100キロで70キロくらいのカーブを投げてました。ストライクが入ることくらいしか、いいところはなかったです」。同学年の部員は10人だが、スタメン入りぎりぎりの立ち位置だった。

人生は何があるか分からない。「普通」の野球少年は高島高、龍谷大、ホンダ鈴鹿と進み、多くの人に出会った。鍛錬を積み、1度の指名漏れを経てプロの舞台にたどり着いた。「僕はエリートでは全くないです。でもここまで来られたのは、周りの方々のおかげだと思います。今、野球をやっている子どもたちには、周りの人への感謝の気持ちを持って頑張って、と言いたいです」。苦境にも負けず、信じた道を歩む。【桑原幹久】

◆滝中瞭太(たきなか・りょうた)高島3年夏の滋賀大会は2回戦で近江に0-4で敗退。龍谷大を経てホンダ鈴鹿では17~19年都市対抗、18、19年日本選手権に出場。18年日本選手権の大阪ガス戦で勝利。昨年日本選手権の大阪ガス戦は延長11回0-1でサヨナラ負けも完投で10奪三振。19年ドラフト6位で楽天入団。今季推定年俸900万円。180センチ、93キロ。右投げ右打ち。