実務派選択がマジシャンを生んだ-。「スクープの舞台ウラ」の第2回は、近鉄監督人事です。1987年(昭62)オフ、近鉄は次期監督に二者択一を迫られた。岡本伊三美監督の下、シーズンは最下位。次の監督は切り札のOB鈴木啓示氏か、それとも内部昇格の仰木彬コーチか。85年阪神日本一のトラ番で後に大阪・和泉市長を務めた井坂善行氏(66)の直撃取材を受けた上山善紀オーナー代行は「鈴木君は時期尚早だ」と断言。この決断が仰木マジック、名将への道を開くことになる。(肩書は当時)

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取材するこちらがビックリするような「爆弾発言」だった。プロ野球チームの監督の任命権を持つ本社の会長であり、球団のオーナー代行だった上山善紀氏が「次の監督は仰木」と教えてくれたようなものだった。

87年9月4日、近鉄は予定されていた藤井寺での西武戦が雨のため中止となった。優勝候補に挙げられながら開幕から低迷し、最下位が確定的な状況で、就任4年目の岡本監督の辞任はすでに既成の事実となっていた。

こんな時、チームを取材してもネタがない。次期監督には少し早い気もしたが、私は中止決定と同時に藤井寺を離れ、大阪・上六にある近畿日本鉄道の本社へと向かった。うまくいく時とは、こんなものである。夕刻、20分ほど待っただけで上山オーナー代行が退社のため本社ロビーに現れたのである。

「日刊スポーツの井坂です」

「天皇」と呼ばれた佐伯勇氏は本社の名誉会長で球団のオーナーでもあったが、実質的には近鉄本社も球団も上山オーナー代行が最高実力者だった。小柄な方だったが、私鉄日本一を自負する近鉄のトップ。その存在感は半端ではなかったが、こちらが一礼して名乗ると、スッと立ち止まってくれた。

「日刊スポーツさんか。いつも前田君(球団代表)から聞いているよ。今年の記事は厳しいね。ところで、今日は何?」。

スポーツ紙では、岡本監督の後任には成績も人気も低迷するチームへの起爆剤として、300勝左腕の鈴木啓示氏を推す報道が大勢で、この切り札招聘(しょうへい)がうまくいかなかった時には、仰木ヘッドコーチの内部昇格か、という論調だった。

そんな中、直撃した上山オーナー代行の口から出てきた言葉が「鈴木君は功労者には違いないが、今すぐに監督ということについては、私の頭にはない」というものだった。

二者択一の中、1人の候補者を本社トップが「時期尚早」と完全否定した。となれば、誰が聞いても「次の監督は仰木」と公言しているようなものである。

私はこの上山オーナー代行のコメントを持ち帰り、球団の前田代表にぶつけた。「監督問題は白紙」という建前は貫いたが、さすがに近鉄総帥のコメントは否定出来ず、「鈴木氏についてのオーナー代行の考えは伺っています」と肯定するしかなかった。

しかし、実際の動きは少々違った。球団としての次期監督候補は、前田球団代表が早くから仰木に絞り、本社に具申していたが、逆に「待った」をかけていたのは本社の方で、その理由が「人気面の回復も急がれる中、仰木ではあまりにも地味過ぎる」というものだった。

後に就任1年目で伝説の10・19を演じ、翌年はリーグV。さらにオリックスの監督に就任してからはイチローを発掘し、阪神・淡路大震災に見舞われた神戸で「がんばろうKOBE」を合言葉に巨人を倒して日本一を成し遂げた。その後、阪神の監督候補に挙げられたこともある。

「仰木マジック」はあまりにも有名だし、パ・リーグの広告塔と呼ばれるほど話題を提供。名将、知将へと上りつめ、殿堂入りを果たした。

正式な就任発表は10月23日、金びょうぶを背に抱負を語った仰木監督は、その後の囲み取材で立ちくらみを起こして倒れそうになった。「昨夜飲み過ぎたかな」と笑いでごまかしたが、実は極度の緊張によるもの。球史に残るマジシャンの船出は、そんな心もとないものだったのである。

 

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍記者を担当後、プロ野球デスク。阪神の日本一、近鉄の10・19、南海や阪急の身売りなど、関西球団の激動期に第一線記者として活躍した。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選、1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。