実務派選択がマジシャンを生んだ--。「スクープの舞台ウラ」の第2回は、近鉄監督人事です。1987年(昭62)オフ、近鉄は次期監督に二者択一を迫られた。岡本伊三美監督の下、シーズンは最下位。次の監督は切り札のOB鈴木啓示氏か、それとも内部昇格の仰木彬コーチか。85年阪神日本一のトラ番で後に大阪・和泉市長を務めた井坂善行氏(66)の直撃取材を受けた上山善紀オーナー代行は「鈴木君は時期尚早だ」と断言。この決断が仰木マジック、名将への道を開くことになる。(肩書は当時)

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その昔、国会答弁で「あー」「うー」を連発することで有名な宰相がいた。話下手なのかと思っていたら、ある政治本によると「実際はものすごい雄弁家。ところが、なぜか答弁になるとあー、うー、となる。あれは一種の時間稼ぎ。あー、うーと言いながら、的確な答弁を考えているに違いない」ということだそうだ。

プロ野球の監督にも取材、インタビューへの対応には、いろいろなタイプがいる。監督時代の仰木彬は大きく分類すると、この宰相のように「あー」「うー」というか、「えー」とか「なんというか」が必ずまくら言葉になるタイプだった。

ズバリ、そのことを本人に指摘したことがある。近鉄でリーグ優勝を果たした89年の夏ごろだったか。東京遠征の際、珍しく広報担当を通じて夜のお誘いをいただいた。仰木監督との関係はあまり芳しくなかっただけに少々戸惑ったが、別にお断りする理由もないから、広報担当と3人で六本木へと繰り出した。

そこで、取材対応についての話題になった。元来、頭のいい人だから、「コメントの内容は悪くないが、『えー』が多いのはマイナス材料。阪急の上田監督のように間髪入れずに答えた方が印象がいい」とアドバイス? した。仰木監督は「そうか。やっぱりそういうものか。勉強しないといけないな」と実に素直な反応だったことを覚えている。

その後、監督としての実績を残すとともに、マスコミ対応についても「えー」は完全にはなくならなかったが、長足の進歩を遂げた。やはり、もともとクレバーな指揮官だったということだろう。

仰木監督誕生を報じたニッカンの紙面には、「名より実」という見出しがあった。負けず嫌いな仰木監督のことだから、采配への探求心とともに、世評の地味な実務派への対抗心も半端なものではなかったに違いない。後日、それが六本木へのお誘いの理由だったことを広報担当から聞いて、うなずけた。