高校球児を巡る環境が、大きく変わり始めている。日本高野連の主導により、今春センバツでは、甲子園大会で初めて「1投手の投球総数は1週間500球以内」という球数制限が導入された。投げすぎから肩肘に故障を負った球児がいるのは事実。高校生の健康を守ろうという意識は、確実に高まっている。有識者会議による議論を経て、球数制限が定められた。

時代の変化を、あの人は、どう見るだろう。2010年に春夏甲子園連覇を果たした興南(沖縄)のエース左腕だった島袋洋奨さん(28)。春は5試合で計689球、夏は6試合で計783球と、今の制限ではあり得ない球数を投げ抜き、2度の栄冠に輝いた。大学からプロに進み、今は母校で指導にあたっている。

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11年ぶりに高校野球の現場に戻ると、時代の変化を感じざるを得なかった。2月に学生野球資格を回復し、母校でコーチとして指導を開始した元ソフトバンク投手の島袋さんは「僕がやっていた時と比べたら、投げないですね」と率直に話した。

沖縄大会は、コロナの影響で開幕延期が続いている。当初の6月19日から7月3日となった。1カ月を切ったが、春大会後の投げ込みは、多い選手で1日100~150球を行う。島袋さんは「僕は多い時は1日200球、投げてました。2日投げ込んで、1日空けて。当時と今とは別ですから」と冷静に続けた。

あの夏、”琉球トルネード”に日本中が沸いた。10年8月21日、東海大相模(神奈川)との決勝で1失点完投勝利。同年春に続く甲子園優勝を果たし、史上初めて深紅の優勝旗が沖縄に渡った。

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最後の打者から三振を奪ったのは、その夏783球目だった。6試合全てに先発し4完投。特に、2回戦(8月15日)から決勝(同21日)までは、ちょうど1週間で5試合に投げ、計667球を重ねた。

今では、あり得ない数字だ。日本高野連は20年センバツから「1週間500球」の球数制限を導入したからだ。

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コロナ禍で大会中止が続いたため、甲子園で実際に球数制限が始まったのは、この春から。記憶に新しいのは、中京大中京(愛知)・畔柳亨丞投手(3年)だろう。先発完投型のエースは勝ち上がるにつれ、球数がクローズアップされた。

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島袋さんは「そういうルールなので。僕がやっていた時とは違う」と率直に言った。「自分でスタートした試合は、自分で白黒つけたいタイプだった。マウンドは譲りたくなかった」と認める。10年の春夏甲子園は計11試合全てに先発。リードが広がった3試合で途中降板したが、本音は続投したかったという。

ただ、指導者となった今、球数制限を、こう考える。

「必要なことだと思います。発達段階にある高校生に負担をかけすぎない、ケガをさせないというのが一番」

興南も、今は継投のチームだ。この春は九州大会4強まで勝ち上がったが、基本的には継投で戦った。同等レベルの投手を3、4人、そろえることを目指している。

もっとも、日ごろの練習では「1人1人が完投能力を持つこと」を意識する。「30、40球しか投げられない投手ではなく、100球以上、投げられる投手を3、4枚、持っているチームの方が強い」。だから、投げ込みでは、それ以上の150球近く投げる(それでも、島袋さんの現役時の200球よりは少ない)。「100球未満で継投に移るとしても、100球ぐらいは投げられる体力がないと、どうしてもパフォーマンスが落ちる」という考えに基づく。

時代の変化、新しいルールに対応しながらも、投げる体力をつけるため、投げ込みは行う。変わるもの、変わらないものがある。

島袋さん自身は高校時代、球数を意識したことはなかったという。卒業後、中大に進み、2年の時に左肘を痛めた。プロに入ってからは、左肘の遊離体摘出手術を受けた。高校時代の”投げすぎ”が遠因にあるのだろうか?

「僕自身は、そうじゃないと思っています」と即答した。高校時代、肘が痛くなったことはなかった。もともと、肘の靱帯(じんたい)が緩く、そのことが大学で患った血腫の原因だとみている。

では、プロで発症した痛みの原因は、どこにあったのか。「動きが変わってしまって、負担がきたのだと思います」。大学3年の秋、突如、ストライクが入らなくなった。投げ方が分からなくなり、いろいろな動きを試した。「そういう中での負担が遊離軟骨につながった。別に、それまでたくさん投げてきたからではないと思っています」。

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14年ドラフト5位でソフトバンクに入るも、1軍は1年目に2試合、投げただけだった。17年に左肘を手術し、その後は育成契約も味わった。19年限りで戦力外通告を受け、引退。20年4月から母校の事務職員となり、今年から指導にあたる。

もし、大学で投げ方に苦労しなければ、その後の故障もなく、今でも現役を続けていたかもしれない。ただ、その苦い経験を、こう受け止めている。

「高校の時は自分のイメージで投げられていました。でも、それは感覚でしかなかった。だから、大学でおかしくなった時、どう投げていたのか分からなかった。自分の中での反省です。そういうところも、生徒たちに伝えていければと思っています。自分の投げ方を分析し、理解しておけば、崩れた時、スムーズに戻ることができる。僕は、それを怠っていました」。

指導者としてスタートしたばかりだが、選手には「痛いところがあれば、すぐに言いなさい」と伝えてある。同時に「指導者が選手のことをよく見るのが一番大切じゃないかと。そうすることで、慢性的なケガにつながることは防げると思います」と言った。

今夏から、甲子園は3回戦第2日と準々決勝の間も休養日となり、準々決勝翌日、準決勝翌日とあわせ、計3日間の休養日が定められる。

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休養日が1日もなかった11年前とは、球児を巡る環境は随分と変わった。それでも、ケガが全く起きない保証はない。「選手が言える環境を。指導者側も気配り、目配りをして、察知できる能力が大事だと思います」と心掛けて指導にあたる。【古川真弥】