やっぱり…。虎党にとって、今年のペナントレースもハラハラドキドキの展開になった。4月初めから首位を快走していた矢野阪神が8月29日に一気に3位に転落した。嫌な記憶がよみがえる。08年の「トラウマ」があるからだ。岡田彰布監督率いるチームは7月にマジックを点灯させるほどシーズン前半から突っ走った。しかしメダル獲得に失敗した北京五輪を転機に、雲行きが怪しくなる。一時は13ゲーム差をつけた宿敵巨人の猛烈な追い上げを食らい、歴史的V逸。続投方針が固まっていた岡田監督が辞任するドタバタ劇に発展した。ノーモア失速の虎―。当時の虎番キャップが振り返る。

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東京五輪のメダルラッシュを振り返るテレビ特番で、ソフトボールの大黒柱上野由岐子が苦笑いしていた。後ろに座る若いメダリスト、スケートボードの西矢椛と開心那からきょとんとされたからだ。「まだ1歳だったから、分からない」「わたしが生まれた年です…」。13年前、北京五輪での歓喜に、おとぎ話を聞くようなリアクションをされてはレジェンドも頭をかくしかない。

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13年前の元日、日刊スポーツの阪神担当キャップだったわたしに届いた大先輩編集委員の年賀状には、力強い筆文字でこう記されていた。

「星野で金、岡田でV」

編集委員はオール日刊の五輪野球担当キャップだった。星野ジャパンが悲願のメダルを獲得し、秋には岡田阪神が3年ぶりペナント奪回…。壮大な夢は、どちらも果たされなかった。それもほろ苦い、いや、当事者にとっては激痛に近い衝撃の経過をたどり、そろって霧散したのだった。

05年のリーグ制覇から、阪神は常に優勝を争う常勝チームの地位を確立していた。それも競馬で言う「追い込み」型、シーズン終盤に強いチームとしてタフな戦い方が身についていた。

連覇を目指した06年は、中日と3・5ゲーム差の2位。優勝した中日落合監督が涙をぬぐいながら「阪神の追い込みというのは…球史に残る戦いだったと思います」とかすれた声で言った。8月中にマジック40を点灯させたライバルをとことんまで追い詰め、前年覇者のプライドを保った。

翌07年の「差し脚」も強烈だった。セ・パ交流戦の6月中には借金7の4位で、首位巨人に最大12ゲーム差をつけられた。デッドラインからの巻き返し。長期ロードが明けた8月30日広島戦から10連勝を飾り、9月9日には巨人をかわして首位に立った。守護神藤川はリーグ記録の10試合連続登板で2勝7セーブとチームの白星を導いた。ただマジック点灯はかなわず、逆に9月19日から8連敗。最終的には貯金8の3位でシーズンを終えた。

2年続きの惜敗を受け、この07年オフに大型補強に動いた。FAで広島新井貴浩を、オリックスとの大型トレードでマルチプレーヤー平野恵一を獲得。それぞれ2番、3番に座る打線が機能し08年の阪神は開幕5連勝を皮切りに、いつにない好スタートを切った。

7月上旬に50勝一番乗り。同9日には貯金28を築き、それぞれ貯金2の2位中日、3位巨人に13ゲーム差と突き放した。典型的「追い込み馬」がハナを切り、後続をみるみる引き離す大逃走。これなら、この勢いなら、前年に逆の立場で演じた大逆転劇もよもや起こるまい…。「毎回ハワイでは芸がないし、オーストラリアも行ったしな。ドバイのようなリゾート地がいいかも」。チーム内では優勝旅行の行き先を検討する声もあったほどだ。

転機は8月開幕の北京五輪だった。星野監督率いる侍ジャパンに新井と藤川、矢野の主力3人が派遣された。今年の東京五輪のようにシーズン中断はなく、阪神も中継ぎアッチソンなど代役を整備してはいたが、戦力ダウンは否めない。メダルを逸して帰国した侍戦士のうち、新井はのちに骨折と判明する腰痛で離脱。シーズン最終盤まで戦線復帰はかなわなかった。

一方でライバル巨人は3番小笠原、4番ラミレスが引っ張る強力打線が仕上がり切っていた。9月に入ると12連勝。特に直接対決の阪神戦に7連勝と猛追した。

9月21日には貯金23のラインで阪神と巨人はゲーム差なしで並んだ。7月以降、ほぼ勝率5割の戦いを続ける阪神だったが、当時の主力選手が「いつ負けるねん」とあきれるほど負けない巨人に、マッチレースに持ち込まれた。

マジックは消え、13ゲームのアドバンテージさえも消滅した阪神だが、それでも踏ん張り、首位の座だけは死守していた。巨人にとって運命の日と言われる10・8。東京ドームでの同率の直接対決で敗れ、ついに陥落。その2日後、横浜スタジアムでも敗れ、同日、神宮で勝利した巨人に優勝をさらわれた。

貯金20を超しながらの2位でV逸。「そんなん全部言い訳よ。力負け。誰かが責任を取らないといけないんよ」。岡田監督はその夜、横浜の宿泊ホテルの一室で、ユニホームを脱ぐ決心をした。歴史的V逸の責任を一身に背負っての辞任。傷心の10月11日、横浜でのデーゲーム前に全ナインを集めて決意を告げた。続投方針が示されていたこともあり、選手はもちろん首脳陣、球団首脳にも寝耳に水の電撃退任だった。

思えばその後も、阪神はリーグ優勝に届いていない。順調に貯金を蓄え一時は2位巨人と最大8ゲーム差をつけた今年は、16年ぶり優勝の機運が高まってもおかしくないのに、それでも楽観できないのは、13年前の五輪イヤーに喫した苦すぎる経験があるからか。

もちろん当時を知らない佐藤輝明や及川雅貴ら若い選手が「真夏の大冒険」とばかりに大技トリックを決めれば、自虐的なファンは苦笑いで過去を忘れられるだろう。「侍で金、虎でV」の夢が現実となることを、ひそかに祈っている。【08年阪神担当=町田達彦】

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