日本の野球文化は高校野球から成り立っている。日刊スポーツ評論家の田村藤夫氏(61)は、今夏甲子園大会取材で実感した高校野球の意義と、いまだ胸の奥でくすぶる大阪桐蔭―東海大菅生の降雨コールドゲームへのもどかしさを語った。来春センバツ出場がかかる秋季大会が本格化する今、プロ野球にはない高校野球でしか味わえない魅力を全国の野球ファンへ発信する。(全文5317文字)

◆ ◆ ◆ ◆

プロ野球を見続けてきた私にとって、今回の甲子園取材は、私も歩んだ原点を思い起こさせてくれる時間となった。

言ってみれば、一期一会の観戦が高校野球だった。朝7時過ぎには甲子園球場の報道受付で名前を告げ、リストを確認してもらい色分けされたシールを報道許可証に自分で貼って受付を通過する。限られた枚数しか各社に配されていないため、貴重な1枚を私は使い球場に入る。そして、バックネット裏の古めかしい記者席に座り、試合前のシートノックからグランドに目をやった。

銀傘の下からグランドが一望できる。あらためて広大な内外野、ファウルゾーンを実感できる。そして、アルプススタンドは両翼に高くそびえたつが、そこに満員のファンがいない。今年の大会が、いかに異例な中で開催にこぎつけたかを痛感した。

試合が始まれば、どんどん進行していく。プロ野球のように、選手がある程度の間を許されることもない。当然のことだが、打者が打席を外せばすぐに入るように促されるし、そもそもすぐに打席を外す球児はほとんどいなかった。投手のテンポも小気味よく、試合のリズムは記者席から見ている私には心地よかった。

これまで、テレビでは高校野球を楽しんできたが、捕手として生きてきた身としては、グランド全景が見渡せる場所から甲子園大会を見たかった。

捕手は1人だけバックネットを背にグランドを向く。常に野手を見ながら、内外野の守備位置を把握していた。審判のストライクゾーンの傾向を肌で感じ、投手の表情から自信があるのか、不安に感じているのか、そういった情報を五感を使って頭に入れ、ミットを構えた。

甲子園球場に身を置き、生の雰囲気を感じながら、テレビ画面では分からない全体の動きを視野に入れて試合を見たかった。そして、一定期間甲子園大会を見ることができて、私が関東第一で投手、捕手、三塁手をやりながら甲子園を目指していたころを頭の中でオーバーラップさせながら、存分に高校野球を観戦させてもらった。

捕手の私が感じたプロ野球と高校野球の違いを、真っ先に感じさせてくれたのは三振だった。

大会初日、私は日本航空の左腕ヴァデルナが三振を奪う姿から感じるものがあった。1―0でリードした7回表、2死一塁で東明館の左打者久保から三振を奪う。カウント1―2から、3球続けて変化球がいずれもファウル。7球目にストレートを決め、久保はバットが出ず見逃し三振。

カウント1―2から変化球を3球続けている。いずれも打ち取りに行ったボールに見えた。3連続の変化球に対応されたことと、打者の変化球への意識が強くなったことを踏まえ、ストレートを決めた。見事なピッチングだった。モニターで引き上げるヴァデルナの表情を見たが、淡々としていた。

記者席から見る限りでは、打者の見送った時の体の反応から、打者は狙いを外され、とっさに対応できなかったと感じた。バッテリーの反応が気になったのだが、打ち取ったヴァデルナの顔には特別な感情は見て取れなかった。強いて言えば冷静だな、という印象を受けた。

私がプロで打者との駆け引きにやりがいを感じていた時、捕手として手応えを得るのは「見逃し三振」だった。それが落合さん、門田さん、清原、秋山などの強打者であればなおさらだった。

見逃し三振には、打者の狙い球を外して見送らせた、という意味合いがある。バッテリーの戦略の勝利であって、配球を組み立てた捕手としては「よし」という達成感がある。

打者の狙い球を外して攻め切ったことで、その後の対戦でも有利に進められる。プロでは同じ打者との対戦はシーズン中に何度もある。打者との対戦は続きものだ。ひとつの見逃し三振によって、その打者に対して心理面で上手になれることもある。もちろん、完璧に読まれて打たれれば、その逆もある。プロでは打者との対戦は常に前の打席での攻め方がつながりを持つ。捕手の私が見逃し三振により大きな価値を見いだしていた理由はそこにあった。

当然だが、投手は捕手とは違った認識だったと感じる。打者がストレートを待っているところで、途中まではストレートと同じ軌道を描きながら、ベース手前でスライドし、打者が空振り三振すれば、スライダーをストレートと同じように扱った技術に満足する。

打者のストレート待ちを承知で、真っ向勝負でストレートを投げ込み空を切らせる。キレ、スピードがある速球派はこの空振り三振の魅力を追い求める。捕手の立場からしてもよく理解できた。

捕手の私はどうしても先のことを考えるため、見逃し三振によって得られるアドバンテージと、打者の思惑を読み切った充実感が手応えになった。

三振とはそういう意味合いを持っていたのだが、甲子園での投手は、まったく違う。この試合に勝つために投げている。その後の対戦など考えていられない。目の前のストライク、このひとつのアウトに全力で投げ込む。当然、見逃しだろうが、空振りだろうが、大切なアウト1つに変わりない。捕手が構えたミットから遠く離れた逆球であっても、そこに完成度は求めない。チームの勝利のため、27アウト目を目指してひたすら投げる。

ヴァデルナの冷静で、淡々としたその表情を見て、球児が打ち取る1つのアウトの重さを感じた。

私はドラフト会議にかかる選手の力量を測るという基準だけで、甲子園大会を見ることはしたくなかった。地方大会を勝ち抜いた高校生でも、大学まで野球を続ける選手は限られた人数しかいない。ほとんどは高校野球で選手生活に終わりを告げる。その球児たちのその試合にかける姿に目をひきつけられた。それは地方大会でも同じことで、この試合、この打者、この1球に全力を傾ける熱気に、この一瞬に生きる球児のひたむきさを感じた。

ベンチから大声を張り上げていた専大松戸・吉岡の若々しい行動、降りしきる雨の中、東海大菅生・若林監督と大阪桐蔭・西谷監督が、ベンチのひさしから出て、雨にぬれながら身じろぎもせずにグランドを見ていた姿、攻守交代の度に大きな声で「さあ、行きましょう」と両軍ベンチに声をかけ続けた審判員、きびきびと見事な手際でグランドを整備する阪神園芸のスタッフ。そうしたものがひとつずつ積み重なり、甲子園の魅力となっているのだろう。

◆ ◆ ◆ ◆

今回、私には強く心に残ったシーンがあった。それは大阪桐蔭―東海大菅生の降雨コールドゲームの中にあった。

【残り2516文字(全5317文字) この記事の続きは会員登録(無料)で読めます】>>