大阪・なんば駅の改札前で、2年ぶりに待ち合わせた。30m先から見つけて、手を振ってくれた。「ほんま、久しぶりですねぇ」。7月下旬、ロッテ佐々木朗希投手(19)が甲子園で2度目の登板をした、2日後の暑い日。「昨日は高校野球の実況やらせてもらったんですよ、大阪の準決勝の」。中尾考作さん(37)。オフィスキイワードに所属するフリーアナウンサーだ。

でも、私の知っている中尾アナとちょっと違う。関西のイントネーション。「これが僕の本来ですからね」。21年3月まで岩手朝日テレビ(以下、IAT)の人気アナウンサーだった。大阪狭山市出身。岩手に縁はなく、文学部出身で宮沢賢治ゆかりの地巡りをして面接に臨み、そのまま13年半働いた。思いがけず、濃密な時間になった。全国から注目される出来事に3つも立ち会った。東日本大震災、大谷翔平、そして佐々木朗希―。

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エンゼルス大谷翔平選手(27)。説明の必要もないスターが、12年夏、花巻東高校のエースとして、最後の岩手大会を迎えた。その決勝戦、中尾アナが実況席に座った。07年に入社し、5年目で初の大役抜てき。「今年の決勝は、中尾で行きます」。上司から告げられ、総毛立った感覚は今でも忘れない。

準決勝で高校生史上最速の160キロをたたき出し、野球ファンの枠を超え、列島が熱くなろうとしていた。むろん、現場も燃えていた。

「当時、IATは球場のスピードガンと画面表示が自動的に連動してなかったんですよ。だから、バックスクリーンの表示だけをずっと撮ってるカメラマンがいて。バックスクリーンに球速が出たら何秒かで消えるじゃないですか。『160』が出たら絶対に撮ると。スイッチャーとカメラマンは、そこに勝負かけてたんですよ」

東京キー局のテレビ朝日も、大きな注目を寄せていた。責任重大な決勝に意気込む一方で、160キロフィーバーに違和感もあった。

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高校野球報道をしたくて、アナウンサーを志した。大学時代、ひょんなことから「熱闘甲子園」(テレビ朝日系列)で字幕関連のアルバイトを始めた。思い入れはなかった。ただ、朝日放送の局内を駆け回っているうちに、熱気の一員になっている自分に気がついた。

「毎日反省会があって、僕らもバイトも最後までいるんです。取材してきたスタッフが泣きだすこともあるんですよ。あの選手の気持ちを酌んであげられなくて…とか。最初はびっくりしましたけど、反省会の後に飲みに連れて行ってもらったりして、話を聞けば聞くほど『大人がこれだけ真剣になれる高校野球、すごいな』って思って」

音楽業界を夢見た若者は、高校野球の世界にどんどん惹かれていった。志望先も、高校野球に近いテレビ朝日系列の局がほとんど。IATは特に、1回戦から中継する点に魅力を感じた。入社後も熱心に動いた。中継カードが決まると、両校に出向き、ねっこりと取材。大判のノート見開きに、1つの高校のネタを書き連ねる。試合後も自分の中継時間が終わった瞬間、ダグアウトでの取材の輪へ駆けていく。

「いろいろ面白い話を聞いて、とてもじゃないけど半ページじゃ収まらない。こんな時にしゃべりたいな~というネタがどんどんパンクしていく。勝ち進むたびに、話すネタをどんどん更新していく感じでしたね」

高校野球そのものと真っ正面から向き合ったからこそ、初の決勝実況にはつらい思い出も残る。

「レフト! 大きい、大きい! 見送った~、入りました~!」

決勝戦の3回、大谷が左翼ポール際に3ランを浴びた。その打球がポールの内側だったのか、はたまた外側なのか、話題になった。実況席にいた中尾アナが知る由もなく、会社には苦情の電話が鳴り響いていた。(後編に続く)

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