ヤクルト高津臣吾監督(52)が、横浜の夜空に舞った。優勝マジック2で迎えたDeNA戦。19人を起用し、総力戦で勝利。

試合終了から17分後、球場スクリーンで映像が流される中、2位阪神が敗れ、6年ぶり8度目のセ・リーグ優勝を決めた。昨年までの2年連続最下位から駆け上がった頂点。巻き返した「8つの理由」の1つは、指揮官が作り上げた「一枚岩」の精神。みんなで栄光をつかみ、みんなで喜んだ。

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高津監督は、愛弟子たちが無邪気に喜ぶマウンドへ、ゆっくりと涙ぐみながら向かった。歓喜の輪に入る手前で足を止め「本当におめでとう」とねぎらった。破顔一笑で輪の中心へ。01年、胴上げ投手となった横浜で、指揮官としてセ・リーグ制覇。幾度となく背中を押してきた選手たちから押し上げられ、夜空を大の字で堪能した。

現役時代は守護神。エースや4番に比べれば、脇役となることも少なくなかった。テレビ番組ではクリスタルキングの「大都会」を熱唱するほど、にぎやかで、目立つもの好き。それが指揮官へと転じると、熱く、全力で選手を守った。

20年10月3日の広島戦で死球を受けた青木の直後、山田が打席に立つと「もう1発いったれ」のヤジ。「もう1発はアカンやろ」と、真っ先にベンチを出て、声を荒らげた。7月6日阪神戦では、相手選手のサイン盗みに取られかねない不審な動きには毅然(きぜん)とした態度で、1歩も引かず。誤審騒動で試合終了した9月13日の中日戦では、15分間激しく抗議した。背中には誰一人引き揚げない選手たちの視線。やるべきことを見失わないから、選手たちがついてきた。

3位で迎えた9月7日、首位阪神との3連戦初戦を前に選手たちを集めた。ちょうど100試合目。差は3・5ゲーム。「チームスワローズという一枚岩でいったら絶対に崩れることはない。絶対に大丈夫」。“絶対に”という部分に力を入れ、強く訴えた。奮い立たせ、このカード勝ち越し。“絶対大丈夫”を合言葉に残り試合を駆け抜けた。

その言葉も実は綿密な計画の上に発せられていた。「それは話すことは考えますよ。絶対大丈夫と、ずっと思いながらやってきた。それを選手にも伝えたかった」。ここだ! と思ったのが9月7日。満を持しての言葉だったからこそ、響き、ファンの間でも語り草になった。

そんな指揮官は、全員に「なんでも相談してほしい」と呼びかけ、選手の状態に細心の注意を払った。9月末までは先発投手陣には中6日以上の間隔を空け、野手にも休養を与えながら起用を続けた。故障者が出ると、早く気付けなかったことへの申し訳なさで、頭を抱え込むこともあった。

監督就任時、ともに行動するようになった太田裕哉監督付広報兼打撃投手には、スーツを仕立てた。うれしさのあまりずっとそのスーツを着る姿をひそかに喜んだ。最近よく飲む青汁をヤクルトから箱ごとでもらうと「次はお金を払わせてください」。親しみやすい指揮官となっていった。

勝利を呼び寄せるプレーが出たときは、みんなと一緒に喜ぶ。試合後のインタビューではファンに向けて「絶対大丈夫です! 我々はどんなことがあっても崩れません!」と大声で呼びかけた。選手、スタッフ、みんなに寄り添う指揮官。だから誰もが信頼し、チームのために戦えた。大きくて、強い、一枚岩が、敵地横浜のマウンドにでき上がった。【湯本勝大】

◆高津臣吾(たかつ・しんご)1968年(昭43)11月25日、広島県生まれ。広島工-亜大を経て90年ドラフト3位でヤクルト入団。最優秀救援投手4度。03年オフにFAでホワイトソックス移籍。メッツ、ヤクルト、韓国ウリ、台湾興農、BC新潟を経て12年引退。日本通算286セーブは歴代2位。14年に1軍投手コーチでヤクルトに復帰し、20年から監督。180センチ、75キロ。右投げ右打ち。今季推定年俸8000万円。

◆東京ヤクルトスワローズ 2リーグ制が始まった1950年(昭25)、国鉄スワローズとしてセ・リーグに加盟。65年に経営権がサンケイ新聞社(現産経新聞社)に移りサンケイスワローズに。サンケイ・アトムズ、ヤクルト・アトムズと変遷し、74年からスワローズの呼称が復活。06年から球団名に「東京」を冠した。広岡監督の78年にリーグ初優勝(日本一)。野村監督の90年代に4度優勝(日本一3度)するなどリーグ優勝は今回で8度目。日本一5度。オーナーは根岸孝成氏。

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