DeNAから昨季、戦力外通告を受けた元投手の進藤拓也(29)が、東証1部上場、グループ従業員約2万人の大企業、マブチモーターに就職した。営業部員として将来は米国で働くことを目指して奮闘中。控え投手で始まり、プロまで上り詰めた野球人生を振り返りながら、ビジネスマンとしての将来の展望を聞いた。【斎藤直樹】(敬称略)

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◆29歳まで好きな野球ができて良かった

1軍昇格を目指していた昨年の初夏。進藤は新緑の時期から、自らの野球人生が終わることを予感していた。


「自分の中でも戦力外だなと分かっていた。立場上、今年までかなと5月ぐらいから思っていた」


20年11月、横浜市内の病院で右肘のクリーニングとドリリング手術を受けた。骨片を6個も摘出し、関節内にたまっていた血を抜いた。快方に向かうはずだが、調子がなかなか上がらない。「手術した後も、キャンプでは痛くて投げられなかった。もう無理だなというところがあったので、何をしようかなと考えつつ野球をやっていた」。どこかで自分を俯瞰(ふかん)していた。

16年11月、新入団選手発表会見でDeNAラミレス監督と一緒にポーズをとる進藤
16年11月、新入団選手発表会見でDeNAラミレス監督と一緒にポーズをとる進藤

公式戦の終了まで残り1カ月を切った10月5日、戦力外通告を受けた。5月から覚悟していただけに、小学2年から続けてきた野球をやめる決心はすぐについた。「やりきろうというところはあったので。最後かなと思っていたので、最後まで悔いがなくやろうと思っていた。電話がきて『契約しない』と言われて、29歳まで好きな野球ができて良かったなというところが大きかった」。


横浜スタジアムの近くにある球団事務所を出ると、すぐに球場へ向かった。世話になった先輩や同僚たちに「もう野球はしません」と引退を伝えた。

◆まずは60歳まで働きたかった

すぐに再就職へ向けての活動を始めた。転職サイトに登録し、自らのプロフィルを書き込んだ。当初はグラブメーカー、用具の修理など、野球に関連する企業に興味を持っていた。そんな折り、プロ野球選手会事務局からセカンドキャリアとして4社の紹介を受けた。3社訪問し、その1つがマブチモーターだった。

21年8月31日、広島戦の3回途中からマウンドに上がったDeNA進藤
21年8月31日、広島戦の3回途中からマウンドに上がったDeNA進藤

「まずは定年の60歳まで働きたかった。あと30年。何か途中に目標がないと、辞めてしまうのではないか。マブチモーターは海外に拠点がある。英語を勉強しつつ海外で働きたいと思った」


同社は米国、メキシコ、ポーランド、ドイツ、中国、タイ、ベトナム、シンガポール、韓国など世界中に事業所を置く。目標を達成するのにふさわしい環境だと判断した。


ただグローバル企業ではあるが、BtoB事業(企業間取り引き)が主で、選手会から紹介されるまで知識は乏しかった。「幼稚園ぐらいで毎日遊んでいたミニ四駆ぐらいしか認識がなかった」。電機会社に勤めていた父の光彦さんに聞くと「すごい会社」と説明された。ようやく世界中で2万人以上の従業員を抱え、売上高が1000億円を超える企業の実感がわいた。


会社訪問から2度の面接をへて、内定を得た。これまでマブチモーターでは、元プロ野球選手を採用したことはなかった。同社は「弊社では野球に限らず、スポーツを通して子供や若い世代が心身ともに成長されることを支援しています。そういった活動を通じて一つのことを徹底してやり抜いた経験を持つ人材には成長の可能性があると理解しています」と採用した理由を説明する。


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◆通勤電車で英単語帳、ニュースアプリも

昨年12月から第2の人生がスタートした。千葉県松戸市にある本社で自動車電装用モーターの国内営業グループに配属された。「まだ本格的な仕事というより、営業で会社を訪問した人の書類を手伝ったりというところ」。


まだ現場に行くことはなく見習い状態。「本当にゼロからのスタート。まったく元がないところから始めているので、いろんな人に教わって、話を聞いて、どんなことをしているかを見て。8時間ずっと座っていることがなかったので、最初の2日ぐらいは逆に動いている方が楽なんじゃないかと思うこともあった」と笑う。

20年2月、春季キャンプのブルペンで投げるコースを伝えるDeNA進藤
20年2月、春季キャンプのブルペンで投げるコースを伝えるDeNA進藤

ビジネスマン、特に営業で必須アイテムは表計算ソフトのエクセルだ。売上や原価、利益などを計算しなくてはならない。横浜商大では1年時に簿記が必修授業だった。触った記憶はある。プロ野球選手は個人事業主。経費など税金の計算に使ったことはあるが、本格的に扱うのは初めて。


「いろいろな技を教えてもらってやっている。グラフも作らないといけないので、そこも教わって」。教材を支給され、学びながら毎日実践している。


夢の海外勤務を果たすためには、英語を身に付ける必要がある。DeNAでは「外国人選手とほんのちょっとしゃべるぐらい」だった。今は「所属は国内グループですが、資料などは英語での提出を求められることも多い。英語は必須ですね」。勉強を始めた。「まず単語を。本当に最初からですが」。まるで学生のように朝の通勤電車で単語帳を見ている。毎日30分間、英語のニュースアプリを聞き流している。


海外勤務希望は、DeNA時代の経験が根底にあった。プロ3年目を終えた19年12月、今永昇太投手、中川虎大投手、京山将弥投手らとともに約1カ月、米国シアトルにあるトレーニング施設「ドライブライン」に派遣された。


「アメリカがすごく楽しかった。初めて海外に行って、まったく日本と違う環境でトレーニングできた。ラフな感じで。トレーニング施設も雑というとあれですが、日本にはないような教え方が面白いなと」


科学的なトレーニングで知られる施設。「日本の施設は『ああやってこうやって』という決まりで縛られているが、ドライブラインは働いている人もラフというか自由。アメリカはそういうところなんだろうなと。英語を話せて、そういうところで働いたり住んでみたら面白いだろうなと」。好奇心が原点だった。

マブチモーターで営業職として働くDeNA元投手の進藤拓也氏。撮影時だけマスクを外してもらいました
マブチモーターで営業職として働くDeNA元投手の進藤拓也氏。撮影時だけマスクを外してもらいました

プロ通算は0勝。常にクビと隣り合わせで、バラ色のシーズンオフを過ごしたことはなかった。


戦力外通告後、担当スカウトから社会人野球からのオファーも紹介された。右肘の状態を考慮すると「でも投げられないので、もういいかな」と踏ん切りをつけた。選手ではなく、球団職員として雇用する道も用意されたが、丁重に断った。「1年契約での個人事業主ですので、それもつらいなと。結婚して、妻も10月ぐらいになると毎年ぴりつく感じがあったので、そこはしんどかった(笑い)。毎年、瀬戸際みたいなところがあったので」。

◆五厘刈りは卒業し、柔らかい印象を

プロ2年目に、他大学の野球部でマネジャーを務めていた女性と結婚した。2歳の娘もおり、今年1月に生まれた第2子の長男を妊娠中だった。


球団職員は1年契約の業務委託契約。「選手をクビになった人がまた入ってくる。将来的に球団職員やって40歳ぐらいで他の会社で仕事ができるのかなと。早めに会社に入った方がアドバンテージが大きいかなと」。妻の希望も理解しながら考えた。幸い29歳とまだ若い。野球から離れて転身するのなら、再スタートは早いに越したことはない。


営業職を担う会社員になり、入団2年目から続けてきた五厘刈りも、少し伸ばしている。「(昨年)8月ぐらいからちょっとずつ、社会人に備えてちょっとずつ。さすがに五厘刈りはだめですので」。こわもてのイメージは取れ、柔らかい印象を振りまく。


土日は休みで、遠征もキャンプもなくなった。「家にいるのが増えた。(妻が)喜んでいるかは分かりませんが(笑い)。子供の面倒は見るようになった」。


5年前、契約金2700万円、年俸750万円で、一流企業のJR東日本から転職した。5年後、プロ野球選手をくびになった。


「行って良かったと思います。今も。今は結構JRの選手とご飯に行ったりする。プロに行かなかった人がみんな言うのですが、すごい、誰しもできない経験を5年間できた。全部が良かったことばかり」


心残りはない。海外勤務という夢を携え、ルーキーとして第2の人生に踏み出していく。