日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1984年(昭59)のオフ、2度目の監督を託された吉田が着手した組閣で、意外なキャスティングはヘッドコーチの人選だった。土井淳は同い年で、宿敵の大洋ホエールズで活躍した捕手だ。しかも、お互いが優勝争いで火花を散らした間柄だった。

1962年(昭37)に首位を走った大洋は、夏場に阪神に追い抜かれて逆転優勝を許した。64年はマジック1までこぎつけたが、土壇場で阪神にひっくり返される。当時の吉田と土井は、遊撃と捕手の主力として戦った。

土井は80、81年に大洋監督を務めた。いずれもBクラスに終わったが、7度球宴に出場し、生え抜きの切り札として登用された人材だ。吉田はライバル球団の顔だった土井を呼び寄せたわけだ。

今回の取材で都内を電車を乗り継ぎ、待ち合わせの駅に到着していると、土井は約束した改札口に10分前に現れた。近くの喫茶店でヘッドコーチを引き受けた最初の印象を聞いて笑い合った。

「大阪のバーに入ったら、それまで店に流れていた歌謡曲が六甲おろしに変わるんだから驚きました。尼崎ですれ違った人には『土井さん、頼みまっせ!』って、さすがの人気チームでしたが、えらい球団にきたなと思いましたよ」

吉田と土井の2人は、関西テレビ、フジテレビ解説者として、現場で並んで出演することもあった。吉田は第1期の監督(75年~77年)の際も、土井にコーチとして声を掛けたが、断られていた。

当時について土井は「わたしはまだ“大洋色”が強かったから動けないなと思ったんです」と説明する。吉田は「解説者として3年間接したが、非常に繊細だった」と再び“外様”の土井にこだわった。

84年10月29日、午後6時。吉田は宿泊先だった東京・渋谷の「サンルートホテル」で直接会ってヘッドコーチを要請する。あらかじめ要件は伝わっていたが、契約条件だけでなく、野球観のすり合わせは必要だった。

コーチの資質はチームの浮沈を左右する。約1時間半話し合いが行われたが、土井は「阪神とは現役時代の縁もありました。それに前回も誘ってもらっていたから断りにくかった」という。

「現役のときのよっさんのプレーはよく見て知っていた。捕手と遊撃で違うポジションでも、いかにアウトにするかの技術に対する考え方は一緒でした」

吉田は交渉の場で「守りの野球」を訴えた。それは後に木戸克彦の抜てきにつながっていく。土井が吉田と自身がもつ守備論の共通点を話し始めたときには、すっかり日が暮れだしていた。

【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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