日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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吉田義男と村山実。プロ野球界を代表するトップスターだった両者の対立構図は、阪神球団の“お家騒動”につきまとった。どちらも実力者だっただけに、本人たちに過剰な意識はなくても、派閥はできた。

1969年(昭44)オフ、監督の後藤次男が退任すると新監督に村山が就き、現役だった吉田は半ば強制的にユニホームを脱がされた。村山が退陣すると金田正泰を挟んで75年は吉田に。85年から指揮を執った吉田の後継は村山だった。

ポスト後藤として村山が投手兼任監督になった69年11月。高知・安芸市で秋季キャンプに参加していた吉田は、球団社長の戸沢一隆から市内の旅館「清月」に呼び出され、コーチの要請を受けたが断った。

吉田は自ら登板しながら采配をふった村山を「気の毒だった」と振り返る。戦後初の3冠王に輝いた南海ホークス野村克也、“怪童”といわれた西鉄ライオンズ中西太の兼任監督はトレンドだった。

村山に監督業で先を越された吉田は、キャンプから帰阪後、再び戸沢から球団事務所に呼び出された。まさかの退団通告が行われた。報道でも村山との対立が既成事実になっていた。

「それまでは現役をやめるつもりはなかったんですが、戸沢さんからは『引け』ということでした。村山が、3つ年上の私がいたらやりづらいということだったんでしょうね。なんかそんな感じでしたわ。キャンプで(コーチをと)言われてから、だいぶたっていたと思います。私もよそでプレーするつもりはなかったし、そのままやめざるを得なかった」

吉田自身は限界を感じていなかっただけに複雑だった。17年目、36歳。通算1864安打を記録しており、現役を続行していれば2000安打の大台に届いていたかもしれない。

当時、甲子園球場の関係者入り口を入って右手にあったレストラン「蔦」は、監督、選手ら球団関係者に、プレスが入り交じっていた。かつての本紙トラ番キャップの西本忠成は2人が対照的だったと述懐する。

「村山さんは報道陣を食堂に集めてお茶をしたり、食事をごちそうするタイプだったね。でも吉田さんはそういうことをする人ではなかった。だから記者からはとっつきにくいと思われていたんじゃないかな」

この件に関して、吉田は「私はなぜ、そんなことをしなくてはいけないのかと思っていた」と本音を吐き出した。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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